聖書の言葉を聴きながら

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ヨハネによる福音書 12:12〜19

2019年4月7日(日) 主日礼拝  
聖書箇所:ヨハネ 12:12〜19(新共同訳)


 イエス キリストが十字架を負われた週を受難週と呼びます。きょうの箇所はその受難週の最初の日の出来事です。

 過越祭に来ていた大勢の群衆は、イエスエルサレムに来られると聞き、なつめやしの枝を持って迎えに出ました。
 新共同訳では「なつめやし」となりましたが、以前の口語訳では「しゅろ」と訳されています。これは聖書学の研究が進み、「しゅろ」ではなく「なつめやし」であることがはっきりしてきたということでしょう。新しい翻訳のものは皆「なつめやし」となっています。
 けれど長い間「しゅろ」と理解されていたので、教会暦では受難週の始まりの日曜日を、きょうの箇所の出来事から「棕櫚の主日」(Palm Sunday)と呼んでいます。

 そしてイエスが来られると、群衆は「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、/イスラエルの王に。」と叫び続けました。
 ホサナというのは「いまお救いください」という意味です(新共同訳聖書 聖書辞典、新教出版社、参照:詩編 118:25)。
 群衆は、イエスが救い主、メシアであると期待していました。その救い主とは、ユダヤをローマなど異邦人から解放し、神の民の誇りを回復してくれるダビデのような王だと期待していました。
 しかし数日後、彼らはイエスに対して「十字架につけろ」(19:15)と叫びます。彼らは先祖たちと同様、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神を信じています。しかし彼らは、悔い改めて神と共に生きることを願っているのではありません。自分たちの願いをかなえてくれる都合のいい救い主を期待しています。このような思い、考え方が偶像を作り出します。そして神と共にではなく、自分の願い、都合を中心にして、神から離れていってしまいます。

 さて、イエスはろばの子を見つけて、それに乗られます。聖書は「次のように書いてあるとおりである」と言って、ゼカリヤ 9:9を引用して語ります。「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、/ろばの子に乗って」。
 ろばはユダヤにおいては財産であり、大事な乗り物でした。しかし王や支配者の乗る動物ではありませんでした。王や支配者が好んで乗るのはろばではなくて馬でした。

 ここで群衆の熱狂的な歓迎を受けますが、イエスは一言も発してはいません。イエスはろばに乗ることによって、群衆が期待するような政治的で軍事力を行使する王ではなく、旧約の御言葉に約束された神から遣わされた救い主であることを示されました。ですから聖書は「弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した」と書いているのです。

 イエスが栄光を受けられたというのは、ここではキリストの昇天を指しており、天に昇られた後で、父なる神がイエスの名によって遣わされる聖霊が、すべてのことを教え、イエスが話したことをことごとく思い起こさせてくださったことを指しています。イエスは言われました。「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(ヨハネ 14:26)。

 イエスがラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせたとき一緒にいた群衆は、その証しをしていました。群衆がイエスを出迎えたのも、イエスがこのようなしるしをなさったと聞いていたからです。まさしくイエスが、罪と死から救い出す救い主であることを証しされていたのです。その証しを知った上で、エルサレムの宗教指導者たちはイエスを、救い主を殺すのです。知らなかったのではありません。知っていたからこそ排除するのです。宗教家であろうと何であろうと、罪人は神を拒絶し、自分を優先させるのです。

 ファリサイ派の人々は互いに言います。「見よ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか」。明らかにファリサイ派の人々はいらだっています。しかし、このいらだちの言葉でさえも、イエスの死を預言した大祭司カイアファの言葉のように(11:51)神はお用いになります。聖書は言います。「神に逆らう者は厚かましく事を行う。・・どのような知恵も、どのような英知も、勧めも/主の御前には無に等しい。戦いの日のために馬が備えられるが/救いは主による」(箴言 21:29~31)。

 イエスは今、十字架に向かって進まれます。語ることなく、行いによって旧約に預言されていた王であることを明らかにして進まれます。それは、人間の賢さからすると、愚かに見えます。
 ラザロを復活させなければ、最高法院もイエスを殺そうとまではならなかったでしょう。しかしイエスは意図的にそうされました。ラザロの容態がよくないと知らされて、すぐに駆けつけず、二日間も同じ所に滞在されました(11:6)。そして「この病気は・・神の栄光のためである」(11:4)と言われました。そしてイエスは、神の栄光のためにラザロを復活させられました。

 聖書において栄光とは、神が救いの神であることが明らかになることです。特にヨハネによる福音書では、しばしば十字架を指して栄光と言います。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ 12:23, 24)。
 ラザロを復活させたことによって、イエスは十字架へと進んで行かれます。そして、神がご自身のひとり子の命をかけて、罪人の救いを成し遂げてくださったことが明らかになるのです。神の栄光が、神が救いの神であることが、イエス キリストの十字架によって明らかになるのです。ですからイエスは、神の栄光のために、ラザロを復活させられました。

 そしてこの出来事は、最高法院のメンバーに恐れを抱かせました。イエスは自分たちから民の敬意を奪っていくのではないか。ローマからの独立運動に担ぎ出され、ローマの怒りを買い、完全にローマに征服されてしまうのではないか。そしてそれらの恐れは、イエスを殺すことへと向かっていきます。

 もっと上手なやり方があったのではないか。もっともっと長く活動して、もっともっとたくさんの人をまことの信仰へと導き、救いに与らせることができたのではないだろうか。人間の賢さからはイエスの行動は愚かに見えます。
 しかし、イエスが栄光を受けられるのを見たとき、初めてそれらすべてがイエスについて書かれた旧約の成就であり、イエスを殺した者たちも含めて、人々が神の言葉どおりにしたことに気づくのです。そして、それらはすべてわたしたちの救いのためでした。

 聖書は語ります。「人の心には多くの計らいがある。(しかし)主の御旨のみが実現する」(箴言 19:21)。そして主の御旨のなるところに救いが生じるのです。「天が地を超えて高いように/慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。/東が西から遠い程/わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる。/父がその子を憐れむように/主は主を畏れる人を憐れんでくださる」(詩編 103:11~13)のです。

 神は、人間が神を理解できなくても、神に逆らい、敵対しようとも、神は、わたしたちに対する愛を失われることはありません。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(1ヨハネ 4:10)。

 わたしたちもいよいよイエスを知り、神の救いの恵みを知ることができるように、聖霊を求めましょう。父・子・聖霊なる神との交わりに生きることができるように、神に祈り求めましょう。わたしたちこそ、イエスを仰いで、ホサナ(いまお救いください)と讃え祈りましょう。イエスはわたしたちを救うために来てくださったのです。父も子も聖霊も、わたしたちの救いを願っていてくださいます。救いに与って、神と共に生きていきましょう。父・子・聖霊なる神のもとにこそ、わたしたちの救いがあり、命があり、未来があるのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 ホサナ、どうか今、わたしたちをお救いください。あなたの救いに、あなたの命に与らせてください。いつもイエス キリストを喜んで生きる、あなたの民、あなたの子としてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン