聖書の言葉を聴きながら

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ヨハネによる福音書 1:43〜51

2019年2月17日(日) 主日礼拝  
聖書箇所:ヨハネ 1:43〜51(新共同訳)


 福音書は、イエス キリストを伝えようとしています。イエスがキリストすなわち救い主であることを伝えようとしています。
 きょうの箇所はまだ1章です。この1章で言っていることは3つです。1〜18節は「イエス キリストは神の言葉です」ということ。19〜28節は「洗礼者ヨハネは救い主ではない」ということ。そして29〜51節は「自分でイエスを見てみなさい」ということです。

 29節で洗礼者ヨハネはイエスを指して「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言います。34節でヨハネは「わたしはそれを見た」と言います。36節でも「見よ、神の小羊だ」と言っています。39節は「来なさい。そうすれば分かる」と訳されていますが、元々は「来て、見なさい」となっています。
 そしてきょうの箇所でも46節で「来て、見なさい」とあります。

 福音書は、最初の1章で救い主はイエス キリストです。このイエスを見なさいと宣言して、2章からイエスの救い主としての生涯を語り始めます。

 そこできょうの箇所ですが、イエスガリラヤへ行こうとされます。その時フィリポに出会います。フィリポはイエスが行こうとされていたガリラヤにあるベトサイダ(湖の北側)の出身でした。イエスはフィリポに「わたしに従いなさい」と言われます。イエスは自分と共に生きるように招かれます。イエスと共に生きることこそ救いだからです。

 この1章には、イエスに招かれイエスを見て知った者たちが登場します。そして彼らは人をイエスの許に連れてきます。アンデレは兄弟のペトロを、そしてフィリポは友人のナタナエルをイエスの許に連れてきます。
 福音書は、イエスが救い主としての生涯を始めた直後から伝道が始まっていたことを伝えています。伝道の本質は、イエスとの出会いです。そして福音書自身も、この福音書を読むことを通してイエスと出会うことを願って書かれました。20章31節にはこう書かれています。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」。

 教会はキリストと出会うための場所です。そして礼拝は、父・子・聖霊なる神と交わり、神を知る時なのです。教会がそのようなキリストと出会い、神を知るところとして用いられるように祈っていって頂きたいと思います。

 さてフィリポはナタナエルに言います。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」。つまり「旧約が証ししている救い主に出会った。ナザレのイエスだ」とフィリポは言ったのです。するとナタナエルが答えます。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」。ガリラヤの田舎ナザレから優れたものが出るのだろうか、という懐疑の言葉です。フィリポは言います。「来て、見なさい」。
 イエスを紹介することはできます。イエスの許に案内することもできます。しかし、信じるかどうかは一人ひとりが決断する事柄です。自分自身がイエスと出会って、イエスが誰なのか判断しなければなりません。

 ナタナエルがフィリポについて行くと、イエスはナタナエルを見て「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」と言われます。ナタナエルはほめられてうれしかったかもしれませんが、初めて会うのにイエスが以前から自分を知っているように言うのを不思議に思い、イエスに問います。「どうしてわたしを知っておられるのですか」。イエスは答えます。「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」。
 ユダヤのいちじくの木は、日本のいちじくよりも大きくなるそうです。そしてその木陰は、憩いや瞑想、祈りの場に用いられるそうです。そして旧約では、いちじくの木陰は平和の表れとして用いられます(ミカ 4:4、ゼカリヤ 3:10)。このイエスの言葉は、ナタナエルがいちじくの木の下で祈り、神を求めていたことを表しています。イエスはナタナエルが求めていたもの、必要としていたものを知っていることを明らかにされました。
 それを聞いてナタナエルは言います。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」。イエスの言葉を聞いて、ナタナエルは「この方は自分を本当に知っておられる」と気づきました。
 信仰深かったナタナエルは、旧約の詩人の「主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる」(詩編 139:1)という御言葉を思い出したかもしれません。ただ単に過去のことを言い当てたのではなく、ナタナエルの魂が求めているものをイエスは知っておられました。彼の上辺だけでなく彼の魂の底まで知っていてくださいました。だからナタナエルは、イエスに信仰を告白したのです。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」。

 するとイエスは言われます。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる」。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」。
 この言葉を聞いてナタナエルは創世記にあるヤコブの出来事を思い起こしたことでしょう。「ヤコブは・・ハランへ向かった。とある場所に来たとき、・・そこで一夜を過ごすことにした。・・すると彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったたりしていた」(創世記 28:10~12)。
 イエスは、神の子である自分が人の子となって地上に来たことによって、天と地が結ばれ、神の国に至る道が開かれることを、明言されたのです。

 ここで面白いのは、ナタナエルはイエスに対して「神の子」と言い、イエスは自分のことを「人の子」と言っています。福音書は、イエスが神の子であり人の子であると確信しています。ヨハネによる福音書は、神が遣わしてくださった救い主イエス キリストは「真に神であり真に人である」という信仰に立っています。神学的な言い方では「二性一人格」と言います。イエス キリストの一人の人格に、神性と人性が存在していること、つまりイエス キリストは真に神であり、真に人である、ということです。ですから日本キリスト教会信仰の告白も「イエス・キリストは、真の神であり真の人です」と告白しています。

 これは人の思いを超えています。人の理性は、イエスは人なのか、神なのかと問います。しかし福音書は語ります。その人の思いを超えた神の救いの御業がなされた。来て、見なさい。イエス キリストを見よ。自分で見てみなさい。
 このヨハネによる福音書は紀元90〜100年頃に編纂されたと今日考えられています。イエスが十字架に掛かられたのが、紀元30年頃のことです。おそらく福音書の編者自身イエスを直接は知らないのです。しかし編者自身、伝えられた福音を聞いて、キリストと出会い、イエスを信じたのです。だから自分も、アンデレやフィリポのようにイエス キリストを伝えるのです。先に紹介したように「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」(20:31)と書いているのです。
 そして多くの人がこのヨハネによる福音書を始めとする聖書の言葉を通してイエス キリストと出会ったのです。イエス キリストが誰であるかを知って、信じたのです。
 この教会において、礼拝を通し、聖書を通して、イエス キリストとの出会いが起こりますように。キリストの「わたしに従いなさい」という声を聞いて、信じる者が起こされますように。福音書を書かずにはおれなかったこの編者と同じように、ここからキリストの証しがなされていきますように。


ハレルヤ


父なる神さま
 イエス キリストと出会わせてくださり、感謝します。わたしたちを救いへと招くイエス キリストの声を聞かせてくださり感謝します。どうかこれからもこの教会においてキリストとの出会いが起こり、キリストに従う者が多く起こされていきますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン