聖書の言葉を聴きながら

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ヨハネによる福音書 1:15〜18

2018年12月30日(日)主日礼拝  
聖書箇所:ヨハネ 1:15〜18(口語訳)

 

 ヨハネは彼についてあかしをし、叫んで言った、「『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである」(15節)。

 聖書には4つの福音書がありますが、それぞれ誰に向けて書かれたのかによって特徴が出てきます。例えば、マタイによる福音書は、旧約の民イスラエルユダヤ人)に向けてイエス キリストを伝えようとしています。だから1章にあるイエス キリストの系図(マタイ 1:1~16)は、イスラエルの父祖アブラハムから始まります。一方、ルカによる福音書は、旧約の伝統を知らない異邦人に向けて編纂されました。ですからルカによる福音書に出てくる系図は(ルカ 3:23~38)イエスから始まりアダム、そして神に至ります。すべての人が系図を遡ると、アダムそして創り主である神に至ります。このすべての人のために救い主が与えられた、とルカによる福音書は伝えようとしています。
 このように、誰に向けてキリストを伝えようとしているかによって、福音書の特徴が出てきます。

 このヨハネによる福音書は、1章を読んでみると、バプテスマのヨハネすなわち洗礼者ヨハネの弟子たちにも聞いてほしいという願いが感じられます。
 1:6~8で「ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネと言った。この人はあかしのためにきた。光についてあかしをし、彼によってすべての人が信じるためである。彼は光ではなく、ただ、光についてあかしをするためにきたのである」と言っています。「ヨハネは証しをするために来た人だよ」。「光ではなく、光について証しをするために来たんだよ」と語ります。
 そしてきょうのところでも、洗礼者ヨハネは証しをしたのだと語ります。「『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである」と言って、洗礼者ヨハネはイエス キリストを証ししたのだと語ります。

 今日でもマンダ教団という洗礼者ヨハネを始祖とするという伝説を持った宗教団体があるそうです。(参照:岩波 キリスト教辞典)辞典によれば、洗礼、つまり清めについての儀式を行い、周囲からは「洗礼者たち」と呼ばれているそうです。
 このヨハネによる福音書が編纂された当時、洗礼者ヨハネの伝統を受け継ぎ、洗礼運動を行っていた人たちがどれほどいたのか分かりませんが、ヨハネによる福音書は、洗礼者ヨハネの弟子たちに対して「あなたたちの先生は、イエス キリストを証ししていたんだよ」と語りかけているように思います。

 洗礼者ヨハネの証しは「イエス キリストは自分よりも後から生まれ、後から登場したが、自分よりも先に存在しておられた方であり、自分よりも優れた方だ」というものでした。これは、洗礼者ヨハネに与えられた神の啓示です。明らかに洗礼者ヨハネよりも後から生まれ、後から活動を始めたのに、「イエスはわたしよりも先に存在しておられた」と言うのです。人として生まれる以前から、この方は存在しておられた、と言うのです。1節で「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」と言われているように、イエス キリストは初めから存在しておられた神である、ということを洗礼者ヨハネは知っていた、ということです。彼は神の啓示を受けて、証しをしていたのです。

 この洗礼者ヨハネの証しに続いて、ヨハネによる福音書も証しします。「わたしたちすべての者は、その満ち満ちているものの中から受けて、めぐみにめぐみを加えられた」。
 イエス キリストの救いに与った者はすべて、イエス キリストの満ちあふれる豊かさの中から恵みの上にさらに恵みを受けたのです。罪が贖われる恵み、罪が赦される恵み、罪が清められる恵み、そして神の子となる恵みをすべてイエス キリストから受けたのです。受けたものはすべて恵みでした。わたしたちのすべてを包み込む豊かな恵みです。救いはすべてイエス キリストから与えられました。まさしくイエス キリストこそ、ただ一人の真実な救い主なのです。

 「律法はモーセをとおして与えられ、めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてきた」と福音書は語ります。

 律法は、罪の世で神と共に歩むための指針です。わたしたちは律法なくしてはどうやって神と共に歩めばいいのか分かりません。ですから、律法もまた恵みです。律法の中核となる十戒を受け取り、民に伝えたのはモーセです。そして多くの律法が記されている創世記から申命記は、伝統的にモーセ五書と呼ばれ、モーセが書いたものだと考えられてきました。こういうことから「律法はモーセをとおして与えられ」たと言われています。

 めぐみとまことについては前回14節のところでも語りました。
 「めぐみ」というのは、神が人との間に築いてくださった関係を示しています。そしてキリストの十字架によって実現された罪の赦しを意味しています。人が罪を犯したことによって、神との関係は壊れてしまいました。けれどイエス キリストが来られ、十字架を負われたことによって、罪の贖い、罪の赦しが実現しました。神ご自身によって、神との関係が新たに築かれました。これがめぐみです。
 一方「まこと」(真理)は、神の真実に支えられた神と人との関係の正しさを表しています。神の真実に支えられ変わることのない神と人との関係の正しさ、神を父と呼び、神を信頼し、神と共に生きる、そういう関係の正しさを表しています。この関係は、神の真実によって支えられています。わたしたちの罪が根深く、繰り返し罪を犯してしまっても、神はこの関係をお捨てにはなりません。わたしたちがいつ罪に気づき、神に立ち帰ろうと思ったとしても、神はこの関係をお捨てにならず、ご自身の真実をもって保っていてくださるので、わたしたちは希望を持って立ち帰ることができるのです。
 神がイエス キリストにおいて、罪によって壊れてしまった神と人との関係を新たに築き直してくださり、わたしたちが神との正しい関係にいることができるようにしてくださったのです。だから「めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてきた」と語るのです。

 福音書は語ります。「神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである」。

 わたしたちは神を知ることができません。神を想像することはできても、神を直接知ることはできません。神ご自身が自ら啓示してくださるのでなければ、知り得ないのです。神の永遠・無限を、有限な人間は知ることはできません。神の計り知れない大きさ、その御心、その愛を、人間は知ることはできません。神と名付けた偶像を作ることはできても、まことの神を正しく知ることはできません。
 それが、父のふところにいるひとり子なる神、初めから神と共にあり、神であるひとり子が、人となり、神の言葉となってわたしたちのところに来てくださり、神を正しく知ることができるように啓示してくださったのです。神であるお方が、人となり、その生涯、言葉、業、その命によって、わたしたちに神を教え示してくださいました。

 だからわたしたちは、イエス キリストにあって、救いの確かさを、神の愛の真実を確信することができるのです。そして神は、わたしたちがイエス キリストと出会えるように、教会を建て、主の日ごとに礼拝へと招いてくださるのです。神の言葉である聖書を通してキリストと出会えるように備えてくださっているのです。わたしたちが毎週聖書から聞くのは、唯一のまことの救い主であるイエス キリストと出会うためであり、キリストを通してまことの神を知るためなのです。
 神はわたしたちに対してご自身を啓き示してくださいます(啓示)。よくは知らない大いなる力を神と呼ぶのではなく、わたしたちの創り主であり救い主であり助け主であるまことの神、父・子・聖霊なる神を知ることができるようにと、礼拝を通していつもご自身を啓示していてくださるのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたは、罪の闇の中にいるわたしたちがあなたを知ることができるように、礼拝へと招き続け、自らをわたしたちに啓示してくださいます。どうか、キリストと出会う喜び、あなたを知る幸いでわたしたちを満たしてください。代々の聖徒たちと共に、キリストの満ちあふれる豊かさに与り、恵みから恵みへと歩み行くことができるようにしてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン