聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

ヨハネによる福音書 1:14

2018年12月23日(日)主日礼拝  
聖書箇所:ヨハネ 1:14(口語訳)

 

 神の言葉は出来事となります。
 「神は「光あれ」と言われた。すると光があった」(創世記 1:3)。
 また「わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す」(イザヤ 55:11)と聖書は語ります。

 ヨハネによる福音書も語ります。「言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った」。神の言葉は肉体を取り、人となられました。それがイエス キリストです。
 イエス キリストは神の言葉。イエス キリストを知るとき、神の思いを知ることができます。神がわたしたちを愛しておられること、神がわたしたちを救ってくださること。イエス キリストを知るとき、それを確信することができます。
 その神の言葉であり、命の光であるイエス キリストは、人となってこの世に来られました。永遠なる神が限りある命の人となられました。全能の神が限界を抱えた人となられました。創り主なる神が被造物である人となられました。力に満ちた神が、弱い人間になってこの世に来られました。

 わたしたちは弱くなりたいとは思いません。弱くなるということは、できていたことができなくなるということです。これは老いていくときの大きな悲しみの一つです。しかし、イエス キリストにおいては弱くなることは悲しみではありませんでした。聖書は「わたしたちはその栄光を見た」と語ります。神が弱さを身に負って人となられたことを「栄光」だと言うのです。

 この世では優れた業績に対して「栄光」という言葉を使います。誇りとすることのできる成果に対して「栄光」という言葉を使います。
 確かにわたしたちにとっては、救い主が人となって来てくださったこと、救いを成し遂げてくださったことは誇りです。けれど、わたしたちは自分が弱くなることを誇りとすることはできません。しかし主は、弱くなることを、その極みである十字架を誇りとしてくださいます。
 聖書において栄光とは、神がわたしたちの救いの神であることが明らかになることを言います。主は、ご自身が弱くなること、十字架においてその命を献げ、救いの業を成し遂げることを栄光と言ってくださるのです。

 主は人となって、イエスこそが神の言葉であること、命の光であること、イエスこそ救い主であることを、見て確かめることができるようにしてくださいました。
 ヨハネによる福音書は言います。「わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた」。

 旧約の時代、神は唯一の神でした。しかしイエス キリストを知ったとき、真に神であり真に人であられるひとり子なる神を知り、父・子・聖霊なる三位一体の神が啓示されてきたのです。
 神は唯一の孤独な存在ではなく、神ご自身の内に父・子・聖霊の命の交わりがあり、神が愛であること(1ヨハネ 4:8,16)を知らされました。
 イエスが洗礼を受けられたとき、天から「これはわたしの愛する子。わたしの心にかなう者である」という声を聞き、天が開け、聖霊がはとのように下りました(マタイ 3:16,17)。
 神がお示しくださった三位一体は、ただ父、子、聖霊の神がおられるというのではなく、神が愛であり、愛によって父と子と聖霊とが一つの交わりの内にあることを示しています。イエス キリストが遣わされたことによって、ただ全能の唯一の神ではなく、その内に愛が満ち満ちる父・子・聖霊なる三位一体の神がおられるということが明らかにされました。
 そして自分たちが「愛である神」にかたどられ、その似姿として創られたこと、だから人は愛を必要としていることを知ったのです。

 このひとり子の栄光は「めぐみとまこととに満ちて」いました。
 「めぐみ」というのは、神が人との間に築いてくださった関係を示しています。そしてキリストの十字架によって実現された罪の赦しを意味しています。人が罪を犯したことによって、神との関係は壊れてしまいました。けれどイエス キリストが来られ、十字架を負われたことによって、罪の贖い、罪の赦しが実現しました。神ご自身によって、神との関係が新たに築かれました。これがめぐみです。
 一方「まこと」(真理)は、神の真実に支えられた神と人との関係の正しさを表しています。神の真実に支えられ変わることのない神と人との関係の正しさ、神を父と呼び、神を信頼し、神と共に生きる、そういう関係の正しさを表しています。
 神がイエス キリストにおいて、罪によって壊れてしまっていた神と人との関係を新たに築き直してくださり、わたしたちが神との正しい関係にいることができるようにしてくださったことを、この「めぐみとまこととに満ちて」いたという言葉は示しています。

 神は、イエス キリストによって、わたしたちの救いの神であることを明らかにしてくださいました。本来あるべき神と人との関係を、イエス キリストにおいて成就し、実現してくださったのです。

 これを福音書は「わたしたちのうちに宿った」と表現しています。
 この「宿った」と訳された言葉は、直訳すると「幕屋を張った」という言葉です。
 この「幕屋」というのは「テント」のことです。かつて荒れ野を旅したときに住まいとしたテントのことです。この言葉は、出エジプト記 25章に初めて出てきます。そこで何と言われているかというと「彼らにわたしのために聖所を造らせなさい。わたしが彼らのうちに住むためである。すべてあなたに示す幕屋の型および、そのもろもろの器の型に従って、これを造らなければならない」(出エジプト 25:8, 9)とあります。つまり、神が出エジプトをして荒れ野を旅する民と共にあるための聖所が幕屋だったのです。
 ですから「宿った」「幕屋を張った」というのは、神がわたしたちの内にお住まいくださる、ということなのです。
 これはマタイによる福音書が語っていることと同じです。「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」。これは、「神われらと共にいます」という意味である」(マタイ 1:23)。

 罪ゆえに神と共に歩めなくなってしまった罪人のところへ、神がひとり子を遣わしてくださり、神のめぐみとまこととによって、神と共に歩めるようにしてくださったのです。神が救いの神であることをイエス キリストを通して明らかにしてくださいました。
 聖書が伝える救いは、神と共に生きることです。それを神のひとり子が実現してくださいました。まさしく栄光を現してくださったのです。このキリストが現してくださった神の栄光は、神のめぐみと神のまこととに満ちあふれていました。

 イエス キリストにおいて、神の奇跡がなされました。神のひとり子が人となって、弱さを身に負って、わたしたちのただ中に来て、共に歩んでくださり、わたしたちを神と共に生きられるようにしてくださいました。
 そして、聖霊なる神によってわたしたちの内に信仰を創り出し、このキリストの恵みに与らせてくださいました。キリストの恵みによって、わたしたちを神の子として新しく生まれさせてくださったのです。

 だからわたしたちはきょう、全世界、代々の神の民と共に、喜ぶのです。神がわたしたちを愛していてくださることを喜ぶのです。神のめぐみとまこととを喜ぶのです。神がわたしたちを救い、共に歩んでくださることを喜ぶのです。
 クリスマスにはすべての人が招かれています。「神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられ」ます(1テモテ 2:4)。わたしたちは、愛する者、親しい者、祈りに覚えるすべての人を、キリストの恵みに委ねることができるのです。だからクリスマスは、本当にめでたい祝いの日なのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 代々の聖徒たちと共に主の降誕の祝いに招かれましたことを感謝します。イエス キリストの恵みが、あなたの愛しておられるすべての人に届きますように。あなたのめぐみとまことに満たされて喜び祝うことができますように。一人ひとりが罪から救われて新しく生きることができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン