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ローマ人への手紙 7:14〜20

2018年11月18日(日)主日礼拝  
聖書箇所:ローマ 7:14〜20(口語訳)

 パウロはここで霊と肉という対比をしながら語ります。
 「わたしたちは、律法は霊的なものであると知っている」。

 霊的とは、神の御心に適っている、神と共にあることを表しています。ここでは、律法は神の御心であり正しいものであるということを述べています。
 一方、肉とは、この世に属していることを表します。この世に属し、滅びに至るものを表します。そしてパウロは「しかし、わたしは肉につける者であって、罪の下に売られているのである」と告白します。これは自分の内に罪があり、自分ではこの罪をどうすることもできないことを表しています。

 パウロは律法主義で生きていたときは、「律法の義については落ち度のない者である」(ピリピ 3:6)と言うことができました。しかし、神が遣わされた救い主イエス キリストを理解できなかったことに気づいてからは「わたしは肉につける者であって、罪の下に売られている」と自己理解が全く変わります。

 ちなみに律法主義というのは、律法を表面上・形式上守ることで満足してしまうあり方、自分は神の御心に適って正しく生きていると自己満足するあり方を指します。
 しかし、キリストに捉えられ、キリストを知ってからは、このように自分を理解します。「わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである」。

 律法を形式的に守っても、それでは神の御心には適わないことに気づきました。そして神の御心を思うようになると、神の御心に従って歩みたいと思っても、それを行わず、自分がこうありたいこうしたいと思うことをしてしまうことに気づくのです。つまり、神の御心と自分自身とが対立し、信仰では神の御心に従いたいと思っていても、自分自身がまさってしまうのです。それを「かえって自分の憎む事をしている」とパウロは言っているのです。

 このパウロの自己理解は、一般にいい人ほど理解できません。いい人は、自分の善意に自信があります。自分の善意が神の御心とは違っているということになかなか気づけません。善意の人は、自分が罪人であることがあまり分かりません。
 しかしパウロは違います。パウロは徹底的に律法で生きてきたので、キリストを理解できなかった、キリストを遣わされた神の御心が自分には全く分からなかったことで律法主義の根本的な誤りに気づきました。人間の力では、神と共に生きることはできないのです。

 そんな自分の姿を思い巡らし、律法について考え直すとき、パウロはこう思い至ります。「もし、自分の欲しない事をしているとすれば、わたしは律法が良いものであることを承認していることになる」。

 パウロはこんな風に考えます。パウロは神に従って歩みたいと願っています。キリストを知るに至って、神が律法を通して何を願っておられるかを知りました。そしてパウロは神の御心に従いたいと思っています。つまり律法を正しく行いたいと欲しています。
 キリストを知る前まではできていました。律法主義は形式的ですから、この律法を守るにはこうすればいいというのが決まっています。しかし、キリストを知ってからは、律法を与えてくださった神の御心を思うようになりました。
 神の御心の根源は、ひとり子を遣わすほどに人を愛しておられる、ということです。聖書における「愛」とは、共に生きようとすることです。神は人と共に生きようと願っておられます。それに対して、律法主義は自分が正しく生きること、自分が神に喜ばれることを考えます。
 基本的に律法主義は、自分のことを考えています。けれど、神はなぜ律法をお与えになったのか、キリストに出会ってからそのことを思うようになったときに、律法主義のあり方を神は願っておられないことに気づきました。自分が正しくて自分が喜ばれる、そのように自分のことばかり考えることを神は願っておられない。神と共に、隣人と共に、神の恵みの中で共に生きるためにはどうすればいいのか、そのための道を律法は示しています。しかし律法主義はそのことを全く考慮してきませんでした。
 パウロは、共に神に従って歩むためには律法をどう受け止めていけばよいのかを考えるようになりました。そこに、神に従おうとする信仰と、自分の中の「こうありたい」という自分自身の願い、あるいは「こうあるのがよいと思う」と考える自分自身とが争い、いつも自分がまさってしまう。神の御心と自分自身が相容れないことがパウロには明らかになってくるのです。

 先ほど言いましたように、いい人はここで自分の「こうしたい」「こうあった方がいい」という思いを批判的に捉え、「神の御心はどうだろうか」と考えてみることがなかなかできません。自分自身の考えが神の御心とは一致しないのだということを忘れてしまいます。ですからいつも、神の御心よりも自分自身がまさります。しかし神の御心と自分自身が相容れないことが、パウロには明らかになってきます。

 そこでパウロは一つの結論に至ります。「そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である」。わたしの内に宿っている罪が、神と共に歩むことを妨げている。
 「わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている」。
 善とは、神の御心です。そして悪は、神の御心から離れることです。
 「もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である」。

 「わたし」が律法を行うとき、必ず「わたし」が律法を解釈します。例えば、わたしたちが人を愛するとき、こうすることがこの人のためになる、この人の助けになる、この人に喜ばれるだろうなどと「わたし」が考えます。このとき「わたし」は自分の価値基準に照らして判断します。そのとき神の御心に従いたいと思っていても、神の御心が直接分かる訳ではありません。良いか悪いかを判断する「わたし」というフィルターを通して判断します。しかし、罪人の救いのためにひとり子を献げる神の御心は、あまりに広く大きくレベルが違っていて理解し尽くすことも、すべてを受け入れることもできません。わたしたちは、神の御心を直接、正しく、正確に理解することはできません。罪を抱えているので、神の御心そのものを純粋に理解するということはできないのです。
 わたしはどうやっても神と一つにはなりません。これを創世記は、善悪を知る木の実を食べたと表現しています。もう神と違う善悪を抱いてしまったのです。罪人は神とは違うのです。

 パウロはキリストと出会い、キリストを知ったことによって初めて罪を知ったのです。努力や工夫ではどうしようもない、存在そのものが神と違ってしまっている罪を知ったのです。
 そして、どうすることもできない罪人を救うために、ひとり子を救い主として世に遣わされる神の御心を知るに至りました。キリストご自身も、民を救うためにその命を献げて贖いを成し遂げ、死を打ち砕き、命の道を開かれました。パウロは、その恵みの広さ、長さ、高さ、深さに圧倒されたのです。
 だからパウロはピリピ人への手紙でこう書いています。「わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである」(ピリピ 3:7~9)。

 わたしたちの救いはイエス キリストにあります。キリスト以外にはありません。キリストに罪を贖って頂き、赦して頂くことが必要です。キリストを信じることを通してキリストと一つにされる。キリストと共に罪に死に、キリストと共に復活する。キリストの命に与るのです。そしてわたしたちは神の子とされるのです。「栄光から栄光へと、主(キリスト)と同じ姿に変えられていく」のです(2コリント 3:18)。

 だから教会は、2000年キリストを宣べ伝えてきたのです。この人を見よ、この方によってわたしたちは救われる。この方によって新しくされる。朽ちることのない希望と平和はキリストから来るのです。何ものもキリストの代わりにはなりません。イエス キリストこそ、わたしたちを罪から救い、神の国へと導き、永遠の命でみたしてくださるただ一人のお方なのです。

ハレルヤ


父なる神さま
 わたしたちにキリストを知る信仰を与えてくださり感謝します。キリストを知らずして罪を知ることはできず、キリストを信ずることなく罪を知るとき、わたしたちは悲しみと絶望の中に陥ります。キリストを信じる信仰を与えられ感謝します。どうかイエス キリストが救い主であることをさらに深く知り、信じて歩むことができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン