聖書の言葉を聴きながら

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ヨハネによる福音書 1:1〜5

2018年11月11日(日)主日礼拝  
聖書箇所:ヨハネ 1:1〜5(口語訳)

 

 「初めに言があった」。
 旧約に親しんでいる人であれば、創世記の「神は『光あれ』と言われた」(創世記 1:3)という言葉を思い起こすでしょう。

 「言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった」。
 福音書は、言と神との関係を語り始めます。言は神と共にあります。初めから神と共にあります。そして不思議なことに、言は神だと言われます。
 そして14節まで読むと、この言がイエス キリストであることが分かってきます。「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた」(1:14)。

 ヨハネによる福音書は、神のひとり子であるイエス キリストが、神の言であり、神であることを明らかにしようとしています。ヨハネによる福音書は、ナザレのイエスは神なのか人なのか、という問いに対する答えをはっきりと示しています。そして後に確認される三位一体についての大切な証しをしました。

 3節「すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった」。
 世の初めから神と共にあり、神の言であり、神であるイエス キリストは、すべてのものの創造に関わっておられます。
 この点については、コロサイ人への手紙にさらに詳しく書かれています。そこにはこうあります。「御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである。万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである」(コロサイ 1:15, 16)。
 世の初めから神と共にあり、神である神の言イエス キリストは、この世界の存在に関わっておられます。

 4節「この言に命があった」。
 これは直訳すると「彼の中に命があった」となります。新約が書かれているギリシャ語で言はロゴスと言います。このロゴスは男性名詞なので(ギリシャ語の名詞は男性名詞、女性名詞、中性名詞があります)、彼はロゴス(言)を指します。それで口語訳聖書は「この言に命があった」と訳しました。これで正しいのですが、「この言に」よりも「この言の中に」と強調した方がよかったかなと思います。
 ヨハネによる福音書は、最後の方に福音書を編纂した目的が書かれています。20:31に「これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである」とあります。
 命はヨハネ福音書の大切なテーマです。有名な 3:16にも「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」とあります。
 イエス キリストの内にこそ命がある。イエスがキリスト(救い主)であると信じることにより、イエス キリストの中に入れられ、キリストの命に与るのです。

 聖書のメッセージの中心は「神と共に生きる」ことです。それこそが「永遠の命」です。そして、それはイエス キリストの内にあるのです。イエス キリストを救い主と信じ、キリストと一つにされ、キリストの内に入れられる。そのとき人はキリストと共に永遠の命を生きることができるのです。
 ヨハネによる福音書は、死を超えていく永遠の命の秘義を明らかにしているのです。

 これまでも申し上げてきましたが、命は自分の命でも自分のものではありません。時を止めることはできず、人は必ず老いていき、死を迎えます。どんなに生きていたいと願っても、死を避けることはできません。この死に支配されている罪人に、神が与えてくださった命の道が、キリストと一つされて神と共に生きる、それが永遠の命の道なのです。だからイエスは言われます。「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ 14:6)と。

 4節後半「そしてこの命は人の光であった」。
 ヨハネによる福音書は、光についても記します。イエスご自身「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」(8:12)と言われ、また「わたしは光としてこの世にきた。それは、わたしを信じる者が、やみのうちにとどまらないようになるためである」(12:46)と言われています。
 闇は、神を見出すことのできない状態を指します。神を見出すには、光が必要で、その光はイエス キリストなのです。わたしたちは、イエス キリストを知るとき、イエス キリストを通して神を知るのです。
 逆説的に言うならば、イエス キリストによらずして神を知ることはできないのです。イエス キリストこそ光であり、イエス キリストを通して神を知ることができるのです。

 5節「光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」。
 イエス キリストは、罪の世の闇の中で輝いています。イエス キリストご自身が光であり、輝いているので、闇の中にいる者も光を見つけることができるのです。
 闇がどれほど光を妨げようとしても、ひとり子を遣わすほどに世を愛しておられる神の愛を妨げることはできないのです。イエス キリストは、確かに十字架で命を献げ、死を打ち破って復活されました。イエスがわたしたちのために死んで復活されたので、わたしたちがイエス キリストを信じるとき、イエス キリストと一つに結び合わされ、キリストと共に罪に死に、キリストと共に永遠の命に復活するのです。

 イエス キリストが一体誰なのか、それを知るとき、わたしたちの前には永遠の命に至る命の道が開かれます。死に向かって生きるのではなく、神の国での復活へと至る命の道が開かれるのです。

 イエス キリストは、わたしたちを神と出会わせてくださる神の言。わたしたちの創造に関わり、救いを成し遂げてくださる真の神。わたしたちの救いのために、わたしたちに代わって命を献げ、陰府へと降り、死を打ち破り復活された真の人。わたしたちと一つになってくださり、わたしたちに永遠の命を与えるただ一人の主。光となって罪の世を導く命の光。圧倒的な力で、わたしたちを闇で覆い尽くそうとする罪を打ち砕く勝利者であります。

 ヨハネによる福音書は、真の神である神の言、人となられた神の言。わたしたちの命にして光、勝利者であるイエス キリストへの信仰の宣言をもって、福音書を始めます。わたしたちを救いに至らせるために福音書を始めるのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 わたしたちの命であり光であるただ一人の主イエス キリストを知らせてくださり感謝します。死に囚われているわたしたちにイエス キリストにより永遠の命の道を開いてくださり感謝します。キリストと一つにされ、キリストの内に入れられ、キリストの命に与ることができるように、どうかキリストを信じて生きる者としてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン