聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

ルカによる福音書 24:50〜53

2018年10月14日(日)主日礼拝  
聖書箇所:ルカ 24:50〜53(口語訳)

 

 ルカは、キリストの昇天で福音書を閉じます。
 実は、キリストの昇天に関しては、ルカが一番関心を持っています。
 マルコ福音書の最後のまとめのところで「主イエスは彼らに語り終ってから、天にあげられ、神の右にすわられた」(マルコ 16:19)とありますが、昇天については一言で終わります。
 書簡では、エペソと1テモテの2箇所に書かれています。エペソでは「降りてこられた者自身は、同時に、あらゆるものに満ちるために、もろもろの天の上にまで上られたかたなのである」(エペソ 4:10)と書かれており、1テモテでは「キリストは肉において現れ、/霊において義とせられ、/御使たちに見られ、/諸国民の間に伝えられ、/世界の中で信じられ、/栄光のうちに天に上げられた」(1テモテ 3:16)と書かれています。どちらもキリストが天に上げられた事実を語りますが、天に上げられる様子を記してはいません。
 ルカによる福音書だけが、キリストが天に上げられる様子を記しています。しかも福音書に続く使徒行伝でも、キリストの昇天から始めています。福音書で記したからその続きからではなく、さらに詳しくキリストの昇天を描いて弟子たちの歩みを書いていきます。

 さて福音書を見ていきましょう。「それから、イエスは彼らをベタニヤの近くまで連れて行き、手をあげて彼らを祝福された。祝福しておられるうちに、彼らを離れて、〔天にあげられた。〕」

 今わたしたちが使っています口語訳聖書では、きょうのところに2箇所〔 〕書きのところがあります。これは書き残された聖書の写本の違いを示すものであり、当時の翻訳者の迷いを示すものです。つまり〔 〕なしで断言してよいのか迷ったのです。祈り会で使っている新共同訳も、今度新しく出る聖書協会共同訳も、この箇所の〔 〕はなくなっているようです。

 ベタニヤは、イエスの公生涯に関係の深い土地で、オリブ山の麓にあり、エルサレムからも近く(ヨハネ 11:18)、イエスが復活させたラザロ、その姉妹マルタとマリヤの住んでいた村です。
 イエスは弟子たちをそのベタニヤ近くまで連れて行き、彼らを祝福されました。

 ルカによる福音書を見ますと、復活と召天は同じの日の出来事のように思えます。しかし、使徒行伝を読むと違うことが分かります。使徒 1:3 には「イエスは苦難を受けたのち、自分の生きていることを数々の確かな証拠によって示し、四十日にわたってたびたび彼らに現れて、神の国のことを語られた」とあります。

 福音書を読む際に覚えておいて頂きたいのは、福音書がまとめられたのは、イエスの死と復活、そして昇天から40年ほど経ってからです。イエスが十字架に掛けられたのは紀元30年頃、福音書が編纂され始めたのは紀元70年頃と考えられています。自分のもとに集まってきた伝承に基づいて、編者はそれぞれイエスが救い主であることを証しするために福音書を編纂しました。
 福音書は、現代のわたしたちが考えるような時間的な正確さを求めてはいません。ビデオに録画された映像とは違います。同じ人物が編纂したルカ福音書使徒行伝の昇天の記事を見てみると分かります。福音書だと昇天は復活と同じ日のように思えますが、使徒行伝では40日間あります。福音書は天に上げられるときイエスは祝福をしますが、使徒行伝ではありません。同じ編者であってもこのように違います。イエスが救い主であること、その救いの恵みを伝えるために書く内容が選ばれ書き方が選ばれています。ですから、伝えようとしている内容を受け取ることが大切です。ルカが福音書の最後の場面で伝えようとしているのは「祝福」です。

 ルカは、イエスの救い主としての業の締めくくりに「祝福」を記しました。弟子たちを祝福し、祝福しながら天に上げられました。
 礼拝が祝福(祝祷)で終わるのは、このためではないかと思っています。イエスは最後祝福をしてくださいました。しかも祝福しながら天に上げられました。主の祝福は終わることなく、今に至るまでも続いています。だから礼拝の最後は祝福で送り出されるのではないかと思います。

 50節に「祝福された」とあり、51節にも「祝福しておられるうちに」とあります。どちらもユーロゲオー(エウロゲオー)という単語が使われています。実はもう一箇所このユーロゲオーが使われています。最後53節の「ほめたたえていた」です。
 このユーロゲオーをギリシャ語辞典で引いてみると、「ほめたたえる、祝福を求めて祈る、感謝する、祝福する」とあります。ですから53節は「ほめたたえていた」で正しいのですが、ルカがイエスに対して2度ユーロゲオーを用いて、最後に弟子たちに対してユーロゲオーを用いたのは、祝福を表すためではなかったかと思います。

 人は神にかたどって創られ、神に応答する者として創られました。神が語りかけてくださるので、人は神に祈ります。神が恵みを注いでくださるので、神を讃美します。神が救いの神として共にいてくださるので、神を礼拝します。神が創造されるので、人も文学でも音楽でも美術でも創造します。神が愛してくださるので、人も愛します。神が赦してくださるので、人も赦します。神にかたどられて造られた人は、神に応答して神の業に倣って生きていきます。
 だから、神が祝福してくださるので、人も祝福するのです。神が祝福されるので、人はアブラハムに約束されたように「祝福の基」となることができるのです。祝福は、創造の始めから与えられていた神の恵みです。創世記 1:22には「神はこれらを祝福して言われた、『生めよ、ふえよ、海の水に満ちよ、また鳥は地にふえよ』」と記されています。1ペテロ 3:9では「悪をもって悪に報いず、悪口をもって悪口に報いず、かえって、祝福をもって報いなさい。あなたがたが召されたのは、祝福を受け継ぐためなのである」と言われています。

 だからルカは、イエスが地上でなされた最後の業が祝福であることを記します。ルカによる福音書は、ローマにいるキリストも旧約の伝統も知らない人々に向けて書かれています。父・子・聖霊なる神が、祝福していてくださることを知らせようとしています。受胎告知と呼ばれる場面を描き、天使ガブリエルがマリヤに「恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます」(ルカ 1:28)と祝福したことを記します。キリストは祝福をもたらすために世に来られました。そして、福音書の最後もキリストの祝福、その恵みに応答して祝福する弟子たちで閉じようとしているのです。

 弟子たちがキリストを祝福するなんておこがましい、と思われるかもしれません。多くの人がそう思うからこそ、ユーロゲオーという同じ単語を使っていてもキリストの場合は「祝福」と訳し、弟子たちの場合は「ほめたたえた」と訳されています。けれど、この後使徒行伝も編纂するルカは、キリストの祝福を受けて、弟子たちも祝福する者となり、こうして世界にキリストの祝福が広められていったことを予告しているのではないでしょうか。

 わたしたちも、毎週礼拝において祝福によって送り出されています。わたしたちもまた、神の祝福を受け継ぎ、祝福の基として世界に神の祝福を広げたいと思います。是非、お子さんやお孫さん、お友達、また見舞いの際に祝福をして頂きたいと思います。皆さんが「召されたのは、祝福を受け継ぐため」なのです(1ペテロ 3:9)。

 彼らは〔イエスを拝し、〕非常な喜びをもってエルサレムに帰り、絶えず宮にいて、神をほめたたえていた。

 わたしたちは今、神の祝福が満ちあふれ、讃美の満ちるところ、すなわちキリストの教会に導かれているのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 イエス キリストを通してわたしたちに祝福を注いでいてくださることを感謝します。わたしたちを祝福の基とし、キリストに倣って祝福する者としてくださったことを感謝します。どうかわたしたちも代々の聖徒たちと共に祝福していくことができますように。この教会から多くの人たちにあなたの祝福が注がれていきますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン