聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

ローマ人への手紙 6:20〜23

2018年10月7日(日)主日礼拝  
聖書箇所:ローマ 6:20〜23(口語訳)

 

 罪の僕とは、罪の導くままに生きることです。聖書の語る罪とは、神の御心、教えに無関心で、自分の思いに従って生きることです。ですから、義すなわち神との正しい関係とは縁がありません。
 パウロは問います。「その時あなた方はどんな実を結んだのか」。
 パウロは答えます。「それは、今では恥とするようなものであった」。

 これを聞いて多くの人はカチンとくるか、疑問に思うでしょう。「パウロは言いすぎではないのか。信仰を持つ前だって、人に恥じるような生き方をしてきた訳じゃない」。

 キリストが見えてこないうちは、わたしたちは罪しか見えていないので、仕方ないかもしれません。それに、生きていくには誇りが必要なので、神に依り頼み神を誇りとする信仰がなければ、自分を誇りとするしかなくなります。人は、価値や意味を求めます。自分の生きる価値や意味も求めます。そしてそれをさりげなく誇ります。アピールします。時に謙遜を装いつつ誇ります。信仰深さを装ってまで誇ります。
 聖書は語ります。「誇る者は主を誇れ」(1コリント 1:31, 2コリント 10:17, エレミヤ 9:24)と。主を誇るのであって、主を信じているわたしやキリスト教を誇るのではありません。主ご自身を誇るのです。

 パウロが問題にしているのは「罪人がなした業はどんな実を結んだのか」ということです。もう少し突っ込んで言いましょう。「あなたのなした業で命という実を結んだ業があったのか。あるのであれば、わたしの前に出してみなさい」と言っているのです。
 もちろん、命の実を結ぶような業はキリストの十字架と復活以外にはありません。わたしたちのなす業は、良心に従った善意の業であっても、命の実を結ぶことはありません。わたしたちは神の御心と完全に一致する業をすることはできず、絶えず神からそれていきます。だからパウロは「それらのものの終極は、死である」と言っているのです。
 わたしたちの善意も、誇りとしているささやかな業も、どれ一つわたしたちに命をもたらすものはありません。自分でどんなに意味がある、よかったと思っていても、それは罪を贖い死から自分を解放することはできません。命を得ることはできないのです。キリスト以外に救いはないし、キリスト以外に永遠の命もありません。
 だから、自分の業を誇ることも、自分の業に依り頼むこともできないのです。たとえ信仰であっても、主ご自身以外のものを誇る者には、神が見えていない、あるいは神を見ていないのです。

 しかしパウロはさらに語ります。「今や、あなた方は罪から解放されて神に仕え、きよきに至る実を結んでいる」のだと。

 わたしたちは、聖霊により信仰を与えられ、キリストを信じるに至りました。キリストにより罪の赦しを受け、キリストの命に与りました。キリストの救いにより、天に真の父を持つ神の子とされました。
 わたしたちは命を造り出すことはできません。命は神から与えられるものです。そして救いも与えられるものです。
 キリストを知るとき、神が限りない愛を注ぎ、このわたしに命を与え、救いを与え、さらに新しい命をさえ与えてくださることを知って、信じるのです。信じたから救われるのではありません。神が御子イエス キリストを遣わしてくださり、救いを成し遂げてくださったから信じるのです。信仰は救いの根拠ではありません。信仰もまた神から与えられた恵みです。信じられない罪の世にあって、神ご自身が信じられる存在となってくださり、わたしたちを信じて生きる恵みへと導き入れてくださったのです。神の恵みに与って生きるその第一歩が、信じるということなのです。

 わたしたちの信仰は土の器です(2コリント 4:7)。弱くもろい土の器です。神はこの土の器に、イエス キリストという恵みを注いでくださいました。わたしたちは恵みの大きさを思うごとに、救いが「わたしたちから出たものでないことが、あらわれるため」(2コリント 4:7)という聖書の言葉を思い起こします。
 わたしたちの信仰は弱くもろい土の器です。しかし神は、そのわたしたちの信仰を「きよきに至る実を結ぶ」ものとしてくださいました。神が与えてくださったきよさは、永遠の命に至るのです。

 だからパウロは力強く宣言します。「罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠の命である」。

 何という恵みでしょうか! 神はわたしたちに御子イエス キリストを与えてくださり、その復活の命、永遠の命にまで与らせてくださっています。そして「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない」(ヘブル 13:8)のです。わたしたちの信仰という土の器に、キリストの恵みがきのうも、きょうも、いつまでも途絶えることなく注がれているのです。神の尽きることのない愛が、恵みとなって命を注ぎ続けていてくださるのです。
 主の日の礼拝は、その恵みを覚えるための時、その恵みに与るための時、祝福の時なのです。

 

ハレルヤ


父なる神さま
 救いを与えてくださり、感謝します。イエス キリストを与えてくださり、感謝します。永遠の命を与えてくださり、感謝します。信仰を与え、信じて生きる恵みを与えてくださり、感謝します。どうかあなたご自身に目を向け、思いを向け、あなたに依り頼み、あなたを誇りとして歩ませてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン