聖書の言葉を聴きながら

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ローマ人への手紙 6:15〜19

2018年9月23日(日)主日礼拝  
聖書箇所:ローマ 6:15〜19(口語訳)

 

 救いは、神と共に生きることです。神と共に生きる人間は「恵みの下にあるのだから、罪を犯してもいいんじゃないでしょうか」(6:15)とは考えません。「恵みが増し加わるのを期待して、罪の中に留まる」というのはどうでしょうか(6:1 フランシスコ会訳)とも言いません。だからパウロも「断じてそうではない」(6:2, 15)と言うのです。

 パウロはここで僕の例えを使って語ります。僕と訳されている単語(ドゥーロス)は奴隷という意味です。奴隷という言葉にはマイナスのイメージしかありませんが、パウロはこの手紙の冒頭で、自分のことを「キリスト・イエスの僕(奴隷)、神の福音のために選び別たれ、召されて使徒となったパウロ」と自己紹介しています。
 僕とは、主人に従う者です。主人の意志に従うのです。パウロが自分を「キリスト・イエスの僕」というときには、自分の意思を実現するために生きるのではなく、主であるイエス キリストの御心に従って生きることを表明しているのです。

 わたしたちはしばしば、自分は自由だと勘違いしてしまいますが、実はそうではありません。わたしたちは常に、何らかの価値基準に縛られています。それらは多くの場合、お金や仕事や家族など富と義理という基準です。
 問題は、それらが罪に属するものだということです。それらがどんなに大事に思えても、神以外の基準を持つとき、人は罪の支配下に入ります。罪は、神の御心から離れる、背くということです。神以外の基準は、必ず罪の支配下に入ります。
 つまり、人には、神に従い神と共に歩む道か、罪に従い神から離れる道か、いずれかなのです。罪は、神のようになれる(創世記 3:5)とささやきながら、わたしたちを誘います。神から自由になれることは素晴らしいことだとささやきながら、罪はわたしたちを神から引き離します。
 その罪の誘惑を絶えず受けて、繰り返し神から離れてしまうわたしたちのために、神はひとり子イエス キリストを救い主としてお遣わしになった訳です。そして神は、キリストの救いの恵みを「感謝します」と信じて受け取ることを通して、神に従い、神と共に生きる道へとわたしたちを引き戻してくださるのです。

 パウロはその神の恵みをこう言い表します。「あなたがたは知らないのか。あなたがた自身が、だれかの僕になって服従するなら、あなたがたは自分の服従するその者の僕であって、死に至る罪の僕ともなり、あるいは、義にいたる従順の僕ともなるのである。しかし、神は感謝すべきかな。あなたがたは罪の僕であったが、伝えられた教の基準に心から服従して、罪から解放され、義の僕となった。」(6:16~18)
 わたしたちは、キリストの救いによって、死に至る罪の奴隷から解放されて、神と共に生きる義の僕とされたのです。

 義とは正しいという意味です。正しさにもいろいろな正しさがあって、法的な正しさ、倫理的な正しさなどいろいろあります。しかし聖書の義が表す正しさは、関係の正しさを表します。親子の関係がよいとか、職場の仲間との関係がよいとか、隣国との関係がよいというような関係の正しさを表す言葉です。聖書においては、もちろん神との関係が正しい良いものとなっていることを表します。ですから義の僕というのは、神と正しい関係になり、神に愛されていることを喜び、神に信頼し、神の御心に導かれて神と共に歩む存在のことなのです。

 19節でパウロは「わたしは人間的な言い方をするが」と書きますが、これは「分かりやすく説明します」という意味です。パウロは既に今語っている内容を、3〜14節で洗礼の意味を明らかにしつつ語りました。けれど、神の秘義である洗礼を用いた説明ではよく理解できない人もいるかもしれないと考え、わかりやすく人間的な言い方でもう一回語ります、と言っているのです。パウロはそれを「あなたがたの肉の弱さのゆえ」だと言います。
 パウロが伝えようとしていることはこういうことです。きょうも最初に申し上げました。救いは、神と共に生きることだということです。神と共に生きる人間は「恵みの下にあるのだから、罪を犯してもいいんじゃないでしょうか」(6:15)とは考えませんし、「恵みが増し加わるのを期待して、罪の中に留まる」というのはどうでしょうか(6:1 フランシスコ会訳)とも言いません。パウロは「断じてそうではない」と繰り返し(6:2, 15)言っています。

 パウロは言います。「あなたがたは、かつて自分の肢体を汚れと不法との僕としてささげて不法に陥ったように、今や自分の肢体を義の僕としてささげて、きよくならねばならない。」

 わたしたちは知っておかねばなりません。わたしたちはキリストの十字架によって贖われ、神の子とされたのです。神は言われます。「恐れるな、わたしはあなたを贖った。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのものだ。」(イザヤ 43:1)
 たとえ、神の国で救いが完成するまで罪を犯すことがあっても、わたしたちはもはや罪を求めてはいないのです。もっと罪を犯したいなどと願ってはいません。神に従うことを求め、神と共に生きることを求めています。わたしたちは救いに入れられて、求めるもの目指すものが新たにされたのです。神から離れたら、悔い改めへと導かれるのです。
 わたしたちは「栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく」(2コリント 3:18)ことを期待しています。神から「良い忠実な僕よ、よくやった」(マタイ 25:21, 23)と祝福されることを目指して「後ろのものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばし」(ピリピ 3:13)ているのです。神の戒め(律法)をきちんと守っているかどうか自己評価をせずに、キリストの救いに入れられた喜びと感謝をもって主に従っていくのです。「お用いください」と自らを神に献げ、神に委ね、導いて頂くのです。
 わたしたちをご自分の民とするために、ひとり子イエス キリストを与えてくださった神の愛の「広さ、長さ、高さ、深さを」(エペソ 3:18)知って、安心して信じて、神に従い仕えていくのです。洗礼は、わたしたちがキリストと一つにされたことを表し続けます。「見よ、世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」(マタイ 28:20)と約束してくださった主は、わたしたちの「心の内に住み」わたしたちが「愛に根ざし愛を基として生活する」(エペソ 3:17)ように導き続けてくださいます。主は「私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる」(エペソ 3:20 新改訳2017)お方であります。

 わたしたちは、自分自身に依り頼むのではなく、わたしたちの真実な救い主イエス キリストを信じて、生きるのです。
 神は、その神の事実を知り、信じるように、きょうもわたしたちを礼拝へと招き導いてくださったのです。

ハレルヤ


父なる神さま
 きょうもキリストの救いの豊かさをお示しくださり感謝します。
 わたしたちはあなたの恵みを忘れてしまいますが、あなたは何度でも繰り返しわたしたちを招き導いてくださいます。あなたの真実と愛こそがわたしたちを救います。どうかあなたの恵みに満たされて、あなたの平安の内に喜び生きることができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン