聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

ルカによる福音書 24:28〜35

2018年9月16日(日)主日礼拝  
聖書箇所:ルカ 24:28〜35(口語訳)

 

 イエスが復活された日曜日、二人の弟子が、エルサレムから7マイル(新約の原文ギリシャ語では60スタディオン、約11.5km)離れたエマオという村に向かって歩いていました。

 二人はおそらく、イエスの墓に行った女性たちが伝えたことについて語り合っていました。
 するとそこに復活されたイエスが近づいてきて、一緒に歩んで行かれました。不思議なことに、彼らの目が遮られていて一緒にいるのがイエスだとは気づきませんでした。復活という神の御業をまだ信じていない彼らには、復活したイエスが目の前にいることに気づけませんでした。
 イエスは彼らに話しかけられます。「今、歩きながら話しているのは、何の話ですか」。
 二人の内の一人クレオパが事の次第を話して聞かせると、イエスは言われます。「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。
 こう言って、イエスモーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされました。

 それから、彼らは行こうとしていた村エマオに近づきました。しかし、イエスはなお先へ進み行かれる様子でした。
 そこで、二人はイエスを引き止めて言います。「わたしたちと一緒にお泊まり下さい。もう夕暮になっており、日もはや傾いています」。イエスは、彼らと共に泊まるために、家に入られました。

 一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、彼らの目が開けて、自分たちと一緒にいるのがイエスであることが分かりました。
 不思議なことにイエスだと分かると同時に、その姿が見えなくなってしまいました。

 この「パンを取り、祝福してさき、彼らに渡して」というのは最後の晩餐を思い起こします。またルカ 9:16では5千人の給食と呼ばれる場面で「イエスは五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福してさき、弟子たちにわたして群衆に配らせた」とあります。この祝福して分け与えるというのは、イエスから命の恵みが注がれてくることを示しています。
 二人は、イエスご自身から聖書の説き明かしを受け、イエスご自身から命の恵みを受けたときに、閉ざされていた目が開かれ、自分たちと一緒におられるのが復活したイエス キリストであることに気づいたのです。

 これが、今わたしたちが守る礼拝が、聖書を説き明かす説教と、目に見える御言葉と言われる聖礼典(洗礼と聖晩餐)が中心となっている理由です。

 ところが不思議なことに、二人がイエスだと分かると同時に、その姿が見えなくなってしまいました。なぜでしょうか。

 28節に「進み行く」という言葉が出てきます。この「進み行く」と訳された言葉(ポレウオマイ)はルカによる福音書では47回でてきます。これは他の福音書と比べるとその多さが分かります(マタイ29回マルコ3回ヨハネ13回)。これはルカが「進み行く」というイメージを大事に考えているということが分かります。二人にとってイエスと出会い、イエスの復活を信じたことがゴールではないのです。イエスは二人に先立って先に行こうとされ、二人を神の国に至る道へ導こうとされているのです。復活のイエスに出会って「あぁイエス様だ」と喜び、そこに留まるのではなく、イエスの復活を信じた信仰と喜びをもって進み行くのです。
 ヨハネによる福音書では、復活のイエスに出会ったマリヤに対して、イエスは「わたしにさわってはいけない」(ヨハネ 20:17)と言われました。そして復活のイエスに出会ったパウロは「わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい。かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい」(2コリント 5:16)と言っています。
 わたしたちは、肉によってイエスを知るのではなく、信仰によってイエスと出会い、神の国を目指してイエスに従うように、まだまだ先を目指して進み行くように招かれているのです。

 二人はは互に「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」と喜びを確認し合いました。

 彼らはイエスに望みをかけていました(24:21)。信じていました。そして十字架を悲しんでいました。復活を信じられずにいました。その二人のところにイエスご自身が来てくださり、信じられるようにしてくださいました。
 二人は、すぐに立ってエルサレムに帰って見ると、11人の弟子とその仲間が集まっていて「主は、ほんとうによみがえって、シモンに現れなさった」と彼らと同じ喜びを語り合っていました。
 イエスは彼ら二人にだけ現れたのではなく、ペテロにも現れてくださいました。
 パウロは1コリント 15:3~8で復活についてこう語っています。「わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは…キリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、ケパ(ペテロ)に現れ、次に、十二人に現れたことである。そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している。そののち、ヤコブに現れ、次に、すべての使徒たちに現れ、そして最後に、いわば、月足らずに生れたようなわたしにも、現れたのである」。

 イエスはわたしたちを罪から救うために来られました。救いとは、神と共に生きることです。神はわたしたち一人ひとりに歩むべき道を備え、導いておられます。わたしたちの人生にはまだ道が開かれています。その道は死を超えて、神の国にまで至ります。イエス キリストの復活、そしてこの後に起こる昇天がそのことを証ししています。わたしたちは、キリストと共に先に進み行くのです。キリストの救いに与った喜び、キリストと共にある喜びをもって進み行くのです。
 ですから二人は、途中であったことや、パンを裂く様子でイエスだと分かったことなどを話しました。彼らは二人とも「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えた」と語っています。
 詩篇 39:3に「わたしの心はわたしのうちに熱し、思いつづけるほどに火が燃えたので、わたしは舌をもって語った」とあります。旧約の民も神によって心燃やされ、神を宣べ伝えたのです。
 二人はイエスが自分たちの人生、自分たちの信仰に関わってくださったことを証ししたのです。信じられなかった自分を信じる者に変えてくださったキリストの御業を証ししたのです。

 この証しというのは、信仰を与えられてどれだけ自分が変わったかを語るのではありません。主は生きておられること、主は今も御業をなしていてくださることを証しするのです。キリストを指し示すのです。日本キリスト教会では、あまり証しが重んじられていませんが、聖書に記されている信仰の業なのです。神を証しするのは、神と共に生きる神の民だけです。

 わたしたちの教会ではあまりしたことがないので、証しと言われてもピンとこないかもしれませんが、それぞれがどうして信仰を持つに至ったのか。あるいは「わたしはこの聖句が好きです。なぜなら、こういうことがあって、この聖句と出会って『あぁ神がわたしと共にいてくださる、この御言葉のとおりわたしに御業をなしてくださった』と信じることができました」ということを語ります。これが証しです。あるいは「わたしはこの讃美歌が好きです。この歌詞を読むと、こういうことが思い起こされて『あぁ主はわたしと共に生きていてくださる』そのことを確認することができるからです」という主が今も生きていて、このわたしに働いていてくださった、わたしの人生に関わってわたしを捉えてくださった、信じない者から信じる者に、神が変えてくださった、そのことを伝え分かち合うのが、証しです。

 わたしがこの証しが大事だと思うのは、この証しを通して信仰の継承、教会を支えてきた先輩たちの信仰に触れて、その思いその信仰を、引き継いでいくことができると思うからです。
 弟子たちもこのようにして復活のキリストに出会って「あぁ主が十字架を負ってくださったのは、このわたしを罪から救い出してくださるためだった。あなたもキリストを信じるならば、この主の恵みに与れる。あなたの罪が赦される。キリストの御業によって神の子とされて新しく生きることができる。永遠の命を受けることができるのです」と証しをして、キリストを宣べ伝えて、福音は広がっていったのです。
 ですからわたしは教会において、婦人会、壮年会、青年会といった所でこの信仰の交わり、証しがなされる、共に神の言葉として信じている御言葉がその人にとって特に大切な、神を信じることができる御言葉として、神が与えてくださったことを知る。そういう聖徒の交わりが大事だと思っています。

 この証しをするためには、まずは神へと思いを向け、自分に対してなされた神の導き、神の御業を思い巡らしてみます。
 1日の終わりに、きょう1日を振り返って、きょうあった出来事、うれしかったことも、腹の立ったこともいろんなことがあることでしょう。それを神の御前で、思い起こす。そして神の御心へと思いを向けてみるのです。「なぜこのように神は導いてくださったのだろう」と御心に思いを向けてみるのです。恵みを与えられて喜んでいるときには、神に感謝しましょう。しかし「神さまどうしてですか」と言わずにはいられないときには、その思いを神さまに受け取ってもらって「どうかこのわたしを苦しみから救い出してください、重荷を軽くしてください」と祈りましょう。
 詩篇を読んでいくと、旧約の民もそのようにして神に訴えながら、神に祈りながら歩んできたことが分かります。今わたしたちも、神の民の長い歴史に連なって、神の前に立って、思いを静め、神の御心を求める。神にこそ「助けてください」と訴えて祈る。そういうことが積み重ねられていく、一人ひとりも、そして教会としても、そのことを分かち合っていく。そういうことが大事ではないかと思います。祈りを通して神に感謝し、またさらなる導きと助けを神に求めていくのです。そのようにして神の民は、神との交わりに生きて、神の国への道を先に立って進んで行かれるイエス キリストに従って歩み続けてきたのです。

 今わたしたちに信仰が与えられているということは、わたしたちもその道を歩んで、神の国に入るように、永遠の命に至るようにと、招かれているということなのです。

 

ハレルヤ


父なる神さま
 あなたを信じ、あなたに望みを置く民に、主イエスは出会ってくださり、語りかけ、命の恵みを与えてくださることを感謝します。主イエスによって信仰の目を開かれ、主にある喜びに心燃やされて歩み続けていくことができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン