聖書の言葉を聴きながら

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ローマ人への手紙 6:12〜14

2018年9月9日(日)主日礼拝  

聖書箇所:ローマ 6:12〜14(口語訳)

 

 パウロは、「キリストを信じる信仰の義によって救われる」(3:21~)ということを丁寧に語ってきました。キリスト以外のものに望みを置かないように、割礼や律法を守っていることで自分を誇ることがないように、救いとは何かについて語ってきました。

 しかし、神がわたしたちを罪から救い、わたしたちと共に生きたいと願っておられるのに、罪は神の御心をねじ曲げることを考えます。
 では「恵みが増し加わるのを期待して、罪の中に留まる」というのはどうでしょうか(6:1 フランシスコ会訳)。

 パウロは「断じてそうではない」(6:2)と、さらに洗礼が示す救いの恵みを明らかにします。
 救いは、キリストと一つにされることです。特に、その十字架の死と復活に結び合わされることです。つまり、キリストと共に死んで罪から解放され、キリストと共に神に生きるという神の奇跡だとパウロは言います。
 パウロはガラテヤ人への手紙でこう言います。「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。」(ガラテヤ 2:20)
 この「キリストと一つに結び合わされて神と共に生きる」これが聖書が伝える救いです。「生きることはキリスト」(ピリピ 1:21)なのです。イエスも言われます。「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである。」(マタイ 28:20)

 パウロが今語っている内容は、神学では「聖化」と呼ばれます。聖化とは、神のものとされる、この世から分けられる、清められることを意味します。では、これはパウロが批判した律法で生きるのとは何が違うのでしょうか。
 律法で生きるのは、自分に生きるのです。救われた者が神に生きると言われるのとは反対です。律法で生きる者は、自分を誇ります。キリスト者の場合、神を讃え、感謝しつつ、自分の信仰を誇ります。わたしは罪人ですと言いつつ誇ります。さりげなくですが、誇ります。自分が信じていること、自分が奉仕していること、自分に目を向けています。やっかいなことに自分に目を向けていることにも気づかず自分を誇ることがしばしばあります。
 一方聖化は、神の恵みによって神に生きるのです。例えるならば、流れのある所で泳ぐのに似ています。自分でやると思って力を入れると水に沈んでいきます。力を抜いて水に支え浮かしてもらいます。そして流れに逆らわず、疲れてしまわないように泳ぎます。聖化も、自分でやる、自分の思い通りにするなどと力を入れずに、恵みに支えてもらい、浮かせてもらうのです。そして神の導きを感じ、従っていくのです。
 自分でこういうことをしよう、してあげようではなく、神が自分に何を願っておられるのか、神の御心は何かを祈り求め、思い巡らしていくのです。そのとき、神の救いの出来事、神の事実を基準に考えるのです。これがキリスト教の黙想です。神の御前で思いを静め(静思の時)、神の御旨に思いを巡らすのです。きょうの聖書の箇所は、パウロが救いの出来事、イエス キリストに思いを向け、黙想して神の御心を聞き取ったものです。

 キリスト者は、キリストの十字架と復活に結び合わせられるため、洗礼を受けました。洗礼により、キリストと共に葬られ、キリストと共に復活しました(6:5)。キリストと共に死んで、キリストと共に生きる(6:8)のです。キリスト者は、罪に対して死んだ者であり、神に生きている者です(6:11)。これが神の事実です。神がなしてくださった事実です。だから「自分自身を神に献げ、義の(ために用いる)武器として神に献げる」(6:13)のです。

 ここで注意点が一つあります。この自分を献げるとき、できたできないの自己評価はしないのです。ただひたすら神の御心に思いを向けるのです。ポイントは、自己評価を止めることです。自己評価は、自分に注目し、自分を誇ることにつながります。既にイエス キリストが十字架を負って罪を贖ってくださいました。わたしたちはキリストによって救われているのです。評価は神がなさるものであり、神はわたしたちを義としてくださいました。わたしたちは救いの恵みの中で、安心して神に委ねて生きるのです。思いを向けるのはイエス キリストであり、神の言葉です。繰り返して言いますが、自己評価はしないのです。思いは神に向けるのです。

 その際にパウロが繰り返ししているように、その根拠を確認します。きょうの箇所の最後に出てくる「あなたがたは…恵みの下にある」もそれです。
 ルターも不安に襲われたとき「わたしはキリストの洗礼を受けた者である」と繰り返し書いたというエピソードが伝えられています。この神の救いの御業の中にある事実を確認することが、罪を抱えて生きるわたしたちには大切です。
 わたしたちは罪を赦されました。罪の支配から解放されました。しかし罪がなくなった訳ではありません。日々罪を重ねています。救いが完成するのは、神の国に復活するときです。しかし、神の国を目指してキリストに従うことが大切です。神と共に生きることが救いです。わたしたちはその恵みの下にあるのです。だから、その事実を知って、確認することが大事なのです。わたしたちは、キリストに救われ、キリストと一つにされ、今恵みの下にあるのです。

 自分自身を神に献げることは、時間かけて行うリハビリや体質改善に似ています。本来持っている命の力を回復させるために、日々行っていきます。体が忘れてしまっている動き・働きを回復するため、日々積み重ねていきます。
 わたしたちが神に従うときもこれと同じです。本来、神にかたどって造られ、愛され、祝福されています。けれど罪のギブスをはめていたため、動かなくなってしまいました。また罪による曲がった姿勢・生き方で歪んでしまったものを整え直していくことになります。急には回復しません。日々行っていくのです。それも自己流で行うのではありません。神の導きによってなされていくのです。
 使徒行伝16章に、パウロたち一行がアジアで御言葉を語ることを聖霊に禁じられたと書かれています。信仰を持ってキリストの福音を宣べ伝えるために仕えていても、神が道を閉ざし神の計画は違うことを示されました。わたしたちも信仰を持って仕えようとしていても道を閉ざされることがあります。「どうしてですか」と神に訴え祈ることがあります。信仰から出た思いであっても、神は「それは違う」と示されて、わたしたちが神の御心を求めるように神は訓練をし、導かれます。自分の思いではなく、神の御心に委ねて歩むように、神が訓練されるのです。

 けれど、到達点ははっきりしています。神が導く目標はイエス キリストです。「わたしたちはみな…栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによる」(2コリント 3:18)とはっきり語られています。
 神の国で復活するとき、わたしたちは復活のイエス キリストと同じ姿に変えられます。そして今は、その途上にあって日々「栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく」のです。

 ですから、わたしたちは希望を持って導かれていくのです。神の国へ、復活へと導かれていくのです。「神が『よかった』と喜んで造ってくださったわたしは、こんなわたしだったのですね」と驚き喜ぶ未来へと導かれているのです。
 これは律法によって自分を高め、自分を誇り、自分を喜ぶのとは、全く違います。恵みを受け、恵みに満たされ、恵みを味わって生きるのです。そして神に支え導かれ、神を喜び讃えて、神の国に至るのです。これが聖書が語っている聖化なのです。

 義認も聖化も、救いの一面を表すものです。義認は神がなしてくださるけれども、聖化はわたしたちの努力目標だ、などということはありません。義認も聖化も神の御業です。イエスはこう言われました。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るため」(ヨハネ 15:16)だと。
 イエスがわたしたちを選び、わたしたちを立てて実を結ばせてくださるのです。だからパウロは言います。「あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している」(ピリピ 1:6)。

 わたしたちは、神の救いの恵みが日ごとに露わになる救いの道を歩んでいるのです。だから恵みの下にあるわたしたちは、自分自身を神に献げ、委ねて生きるのです。

 

ハレルヤ

 

父なる神さま
 わたしたちの人生を、イエス キリストへ、神の国へと導いていてくださることを感謝します。どうかあなたの恵みを味わい、喜びつつ、あなたが愛していてくださるわたしたち自身を献げていくことができますように。御国の到来を待ち望みつつ、日々栄光から栄光へとキリストの姿に変えられていきますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン