聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

ルカによる福音書 24:13〜27

2018年9月2日(日)主日礼拝  
聖書箇所:ルカ 24:13〜27(口語訳)

 

 この日、イエスが復活された日曜日、二人の弟子が、エルサレムから7マイル離れたエマオという村に向かって歩いていました。マイルという単位は、この口語訳聖書を訳したときに参照した英語の聖書に書かれていた単位だと思われます。ギリシャ語本文の単位はスタディオンです。おそらく聖書を読んだ人が、どのくらいの距離か知りたい人がいるかもしれないので、調べやすいマイルという単位を使ったのかもしれません。ギリシャ語本文には60スタディオンと書かれています。1スタディオンは192メートルだと言われています。ですから60スタディオンは、約11.5kmとなります。

 二人は、このいっさいの出来事、おそらくイエスの墓に行った女性たちが伝えたことについて語り合っていました。
 するとそこに復活されたイエスが近づいてきて、一緒に歩んで行かれました。しかし不思議なことに、彼らの目が遮られていてイエスだとは気づきませんでした。キリストの復活という神の御業をまだ信じていない彼らには、復活したイエスが目の前にいることに気づけませんでした。
 イエスは彼らに話しかけられます。「今、歩きながら話しているのは、何の話ですか」。
 二人は悲しそうな顔をして立ち止まり、そのひとりのクレオパという者が語り出します。クレオパという名前は、ここにしか出てこない名前です。ヨハネによる福音書には、イエスの十字架を見届けた女性たちの名前の中に「クロパの妻マリヤ」(ヨハネ 19:25)という名前が出てきますが、このクロパがクレオパではないかと考える人もいて、名前が出てこないもう一人は妻のマリヤではないかと言われたりします。
 クレオパは言います。「あなたはエルサレムに泊まっていながら、あなただけが、この都でこのごろ起ったことをご存じないのですか」。「それは、どんなことですか」とイエスが問われると、クレオパは答えます。「ナザレのイエスのことです。あのかたは、神とすべての民衆との前で、わざにも言葉にも力ある預言者でしたが、祭司長たちや役人たちが、死刑に処するために引き渡し、十字架につけたのです。」クレオパは、イエスは神が遣わされた預言者だと信じていました。けれども、救い主だとはまだ信じておらず、復活も信じてはいませんでした。ですから十字架は、悲しみの出来事でしかありませんでした。
 クレオパは話を続けます。「わたしたちは、イスラエルを救うのはこの人であろうと、望みをかけていました。しかもその上に、この事が起ってから、きょうが三日目なのです。ところが、わたしたちの仲間である数人の女が、わたしたちを驚かせました。というのは、彼らが朝早く墓に行きますと、イエスのからだが見当らないので、帰ってきましたが、そのとき御使が現れて、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。それで、わたしたちの仲間が数人、墓に行って見ますと、果して女たちが言ったとおりで、イエスは見当りませんでした」。

 このルカによる福音書も他の福音書と同様、ナザレのイエスがキリストつまり救い主であることを伝えるために編纂されました。ルカは、イエスが救い主として誕生し、救いの業を成し遂げて神によって復活させられたことを伝えるために、誕生と復活とを共通する出来事で描きました。
 誕生の時は、羊飼いたちに天使が現れて「きょうダビデの町に・・救い主がお生まれになった」(2:11)と告げます。復活の時は、イエスの墓にやって来た女性たちに天使が現れて「その方はここにはおられない。よみがえられたのだ」(24:6)と告げます。
 誕生の時は、八日目に神殿に行くと、イスラエルが慰められるのを待ち望んでいたシメオンという老人と出会い(2:25)、女預言者アンナがエルサレムの救いを待ち望んでいるすべての人々にイエスのことを語り聞かせました(2:38)。復活の時は、神の国を待ち望んでいたアリマタヤのヨセフが(23:51)イエスを葬り、イスラエルを救うのはイエスだろうと望みをかけていたクレオパが(24:21)復活の証人として選ばれました。
 イエスの生涯を、天使の証言と、イエスが担う希望とで包んで、ルカは救い主の生涯を描いたのです。

 クレオパは、神がイエスを遣わされたと信じ、イエスに希望をかけていました。それでも復活は信じられませんでした。昔の科学を知らない人なら復活を信じられたのではありません。2千年の昔も復活は信じられないことであり、神の奇跡だったのです。

 クレオパの答えを聞いてイエスは言われます。「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。
 こう言って、イエスモーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされました。

 クレオパを始め弟子たちが復活を信じられないのは、預言者たちが説いたすべての事を信じないから、つまり聖書が語ることをすべて聞こうとせず、自分の好きなことだけを聞こうとするからです。神の御業、神の御心が自分の願いや期待を超えているので、受け入れられないのです。キリストは必ず苦難を受けて、その栄光に入るのです。それは聖書が告げていること、指し示していることで、自分の思いで、こうなるはずである、こんなことが起こるはずがない、などと自分の考えを優先するならば、神の御心を知ることはできず、神の御業を見ることはできません。弟子たちは、自分が神の御心よりも自分の期待の方を優先していることに気づいていませんでした。旧約を見ていくと、神の民は常に苦難に直面しました。そして、そこから導かれ救い出されていったのです。アブラハムも、モーセも、ダビデもそうでした。イスラエル王国も裁かれ、国が滅び、捕囚の民となり、そこからまた新しく救い出され、歩み出しました。
 わたしたちもしばしば弟子たちと同じようになります。自分の好きな聖句にだけ聞こうとします。自分にとってうれしくない御言葉には心を閉ざします。しかしそれは信仰ではありません。自分の好みを優先させるのならば、それは趣味でしかありません。

 イエスは、信仰、神を信じるということが分かっていない彼らに、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされました。この「モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり」という表現は、旧約全体を表す表現です。つまり、旧約全体にわたって、イエス キリストについて語られているということです。
 旧約はこれから来られる救い主イエス キリストを指し示し、新約は来たり給うた救い主イエス キリストを証ししているのです。つまり、旧約も新約も、聖書はイエス キリストについて語っているのです。イエスご自身「この聖書は、わたしについてあかしをするものである」(ヨハネ 5:39)と言っておられます。イエス キリストこそ神の言葉であり(ヨハネ 1:14)、聖書はイエス キリストを証しする神の言葉なのです。
 ですから、すべての聖書の言葉は、イエス キリストと結び合わせて理解されなくてはなりません。イエス キリストと結び合うときにこそ、聖書は神の御心を明らかに示すのです。

 後に二人はこう言います。「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」(24:32)。
 わたしたちの命の喜びは、イエス キリストとの交わりにあるのです。ここを間違わないで頂きたいのです。教会で聖書からいいお話を聞くのではありません。わたしたちの心が穏やかになり、満たされるいいお話を聞くのではありません。わたしたちは礼拝において、イエス キリストに出会い、イエス キリストと交わり、イエス キリストの救いに満たされていくのです。
 その時、イエス キリストとの交わりは、イエス キリストだけとの交わりではなく、父・子・聖霊なる三位一体の神ご自身との交わりに与っていることに気づかされていくのです。罪により神から離れ、神に立ち帰れなくなっていたわたしたちが、イエス キリストによって罪から救い出され、神と共に生きる命の交わりに入れられるのです。
 神は、この恵みに与らせるため、わたしたちを礼拝に招いてくださいます。神がわたしたち一人ひとりに向かって語りかけてくださる御言葉に心を開いていくとき、わたしたちは自分の信仰深さや自分の能力を超えた神の恵みによって、父・子・聖霊なる神との命の交わりに入れて頂くのです。
 このエマオに向かって歩いていた二人の弟子たちは、そのことを復活の主イエス キリストから、教えて頂き、その恵みに与らせて頂いたのです。

 

ハレルヤ


父なる神さま
 神の御心、神の御業を理解できないわたしたちのところに、イエスは来てくださいました。人となってこの世に来られたように、わたしたちのところに来てくださいました。そして神の言葉であるイエスご自身が、わたしたちに聖書を説き明かしてくださいます。主が語りかけてくださる御言葉によって、わたしたちの命は燃え、喜びと命に満たされていきます。どうか主の日の礼拝ごとに、キリストと出会い、信仰が新たにされますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン