聖書の言葉を聴きながら

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ヘブル人への手紙 11:39〜12:2

2018年8月12日(日)主日礼拝  逝去者記念礼拝
聖書箇所:ヘブル 11:39〜12:2(口語訳)

 

 わたしたちはきょう、先に召された兄弟姉妹を覚えて礼拝を守っています。
 わたしたちの信仰は伝えられたものです。神と共に歩み、キリストに従って生きた信仰の先輩から伝えられたものです。
 ヘブル人への手紙 11:1では「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認すること」だと言っています。望んでいる事柄とは「救いの完成」であり、「神の国の到来」です。それはまだ誰も見たことのないものです。しかしそれを、イエス キリストの十字架と復活、その生涯において確認するのです。キリストと出会い、神を知ったがゆえに、望んでいる事柄を確信し、見ていない事実を確認するのです。目に見えないものを信仰の目で見,未来の事柄を信仰によって今のものとして経験するのです。キリストを信じた者たちは、目に見える世界よりもはるかに大きな世界に生き、現在という時間からも解き放たれて生きたのです。

 11:39には信仰を持って生きた人は皆「信仰によってあかしされた」とあります。「あかしされた」というのは、本来「名前が記録される」という意味です。つまり、信仰の先輩たちは信仰によりその名が記録された、ということを言っています。神の民の名前が記されている命の書に、その名が刻まれたことを示しています。神がその名を救いの中に刻み込んでくださるのです。
 ただし、彼らは救いの約束の完成をこの世において受けることはありませんでした。それぞれに与えられた生涯を全うし、地上の生涯を終えました。けれども、彼らは「見えない方を見ているようにして」(11:27)神と共にこの地上の歩みを全うしたのです。
 神は、すべての信仰者のためにご自身のひとり子イエス キリストを世に遣わすという「更によいものを備えて」くださいました。「わたしたちを心にかけ、神はさらに良い計画をあらかじめ立てておられたので、先に召された信仰の先輩たちはこれから召されていくわたしたちと連れ立って初めて完成に至る」(New English Bible)のです。

 神のひとり子イエス キリストは、自分自身を神に捧げる大祭司としてこの世に来られました。イエス キリストは、その命をもってわたしたちの救いを獲得してくださいました。すべての信仰者は、キリストへとつながり、キリストによって救われ、完成へと至るのです。キリストこそ、わたしたちの信仰の始まりであり、信仰の目標です。信仰の創始者であり、完成者、それがイエス キリストです。
 神は、このようにひとり子イエス キリストにおいてすべての信仰者を救いへと導かれました。神はキリストにおいて、わたしたちに対する愛、救いの完成、永遠の命、そして神の国を明らかにされました。

 そして今、わたしたちはキリストの救いに入れられ、救いを証しする多くの人を思い起こすことができます。聖書が語るように、わたしたちもまた多くのキリストの証し人たちに「雲のように」囲まれています。
 証し人、証人という言葉は、古代においては殉教者を指す言葉でした。そこには、キリストと共に生きたという思いが込められています。証し人たちは、復活の主を見上げて、苦しみも死も含めて与えられた生涯を全うしました。イエス キリストにこそ救いがあり、希望があり、命があることを証しして生涯を全うしたのです。
 そこで聖書はわたしたちにこう勧めます。「こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。」

 聖書はわたしたちの人生を忍耐強く走り抜かねばならない競争に例えています。そして、これを走り抜くための大切な点を指摘しています。それは、イエス キリストという目標がはっきりしたなら、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて目標を目指して走るのです。
 わたしたちはいろいろなものを握りしめ、抱え込んで生きています。しかし、どれ一つとして死を越えて持っていくことのできるものはありません。何も持たずにただ命を与えられてこの世に生まれ、そして何も持たずに与えられた命を主にお返しして、主の御手に受け止められて世を去るのです。この世において良いもの、価値あるものとされる名誉や誇りとなるものもイエスについて走るのを妨げる重荷や絡みつく罪にしかなりません。
 信仰者が証しするのは、キリストに救われ、支えられ、キリストと共に生きたということであって、立派な人生を送りましたということではありません。召されたすべての信仰者が死を迎えるとき、何が希望であり支えであったのか。それはイエス キリストがわたしの救い主となってくださったということ。イエス キリストがその命さえも惜しまずにわたしの救い主となってくださったということ。イエス キリストがその命さえも献げてわたしの救い主となってくださり、罪と死からわたしを救ってくださったということです。

 そのためにイエス キリストご自身、自らの前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の御座の右にお座りになられたのです。神のまま栄光に包まれていることよりも、わたしたちの救いのために人となって世に来られました。わたしたちが負うべき裁きを、自らの命をもって負ってくださいました。そして、死を打ち破って復活し、わたしたちが神の御許に帰る道を開いてくださったのです。
 このイエス キリストに救いがあります。すべての信仰者はこの方によって救われました。そしてこの方は、神が造られたすべてのものの救いのために、わたしたちのためばかりではなく、全世界の救いのためにその命を献げてくださいました(1ヨハネ 2:2)。

 ですからわたしたちは、先に召されていった愛する者たちを、イエス キリストにあって確かな救いの希望の内に思い起こすことができるのです。
 命を与えてくださった神、その死をよしとせずにひとり子の命を差し出してまで、お救いくださった神。その神に愛され、命が与えられ、生涯を導かれて、天へと召されたのです。召された愛する一人ひとりが今、神の救いの中にあることをイエス キリストが保証してくださり、確かなものとしてくださっています。
 そしてわたしたちも救いに入れられた者たちに続くのです。信仰の創始者また完成者であるイエスをしっかりと見つめて生きるのです。すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、キリストの愛に包まれているこの命、この人生をキリストと共に生きるのです。

 

ハレルヤ

 

父なる神さま
 あなたは罪がもたらした死を、イエス キリストの救いの御業において打ち砕いてくださいました。わたしたちは先に召された愛する者たちをもキリストにある希望の内に思い起こすことができます。今、わたしたちをもあなたの救いの中に置いてください。あなたの命の恵みでわたしたちを満たしてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン