聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

ローマ人への手紙 5:18〜21

2018年7月22日(日)主日礼拝  
聖書箇所:ローマ人への手紙 5:18〜21(口語訳)

 

 パウロは、3:21から「キリストを信じる信仰の義によって救われる」ということを、これでもかというほど丁寧に語ってきました。なぜパウロは、そこまで「キリストを信じる信仰の義によって救われる」ということを語るのでしょうか。
 それは、神が「キリストを信じる信仰の義によって救う」とお定めになったことを知っているからです。

 パウロユダヤ人です。ベニヤミン族の出身です。もちろん割礼を受けています。彼は熱心なパリサイ派に所属し、有名なラビ ガマリエルの許で律法について学びました。彼は律法に基づく厳格な生活をしていました。彼は、キリスト者が律法を軽んじていると感じ、憤りを押さえられず、迫害に加わるようになりました。
 それが、キリスト者逮捕のためダマスコに向かう途中、パウロは復活のキリストに出会います。使徒9章にその次第が書かれています。

『さてサウロ(パウロヘブライ名)は・・大祭司のところに行って、ダマスコの諸会堂あての添書を求めた。それは、この道の者(キリスト者)を見つけ次第、男女の別なく縛りあげて、エルサレムにひっぱって来るためであった。ところが、道を急いでダマスコの近くにきたとき、突然、天から光がさして、彼をめぐり照した。彼は地に倒れたが、その時「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。そこで彼は「主よ、あなたは、どなたですか」と尋ねた。すると答があった、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。さあ立って、町にはいって行きなさい。そうすれば、そこであなたのなすべき事が告げられるであろう」。サウロの同行者たちは物も言えずに立っていて、声だけは聞えたが、だれも見えなかった。サウロは地から起き上がって目を開いてみたが、何も見えなかった。そこで人々は、彼の手を引いてダマスコへ連れて行った。』(使徒 9:1~9)

パウロは、復活のキリストご自身によって回心させられ、迫害する者から宣べ伝える者へと変えられたのです。
 この経験を経て、パウロは自分に示されたことをこう語ります。
「もとより、肉の頼みなら、わたしにも無くはない。もし、だれかほかの人が肉を頼みとしていると言うなら、わたしはそれをもっと頼みとしている。わたしは八日目に割礼を受けた者、イスラエルの民族に属する者、ベニヤミン族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法の上ではパリサイ人、 熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者である。しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。」(ピリピ 3:4~8)

 パウロは、自分は神に喜ばれる正しい信仰の道を歩んでいると確信していました。それを復活のキリストに否定されたのです。
 救いは自己満足では得られないのです。自分はユダヤ人として割礼を誇りとしているとか、律法をきちんと守っていることを神は評価してくださるはずだとか、いくら自分で主張しても、救いは神がお決めになることなのです。それをパウロは、復活のキリストによって徹底的に突きつけられたのです。

 神は、善悪を知る木の実を食べるという一つの罪過(ここは必ずしも一人ではなく一つ)によって、すべての人が罪に定められたように、罪なきイエスが罪人の救いのために十字架を負い命を捨てるという一つの義なる行為によって、命を得させる義がすべての人に及ぶと、神がお定めになったのです。

 ひとりの人の不従順によって、多くの人が罪人とされたと同じように、ひとりの従順によって、多くの人が義人とされるのだと、神がお決めになったのです。

 それなのに、いや自分はそこに割礼を加えてほしいとか、断食を入れてほしいとか、自分の満足、自分の納得のために、神の御心と関係なく自分で付け加えてはいけないのです。救いは神の御業、神の憐れみ、恵みによって神が一方的に与えてくださるもの。人間の自己満足と交換するようなものではないのです。

 旧約の民には律法が与えられましたが、律法の大切な働きの一つは、自分の罪を知ることです。律法によって、自分が神の思いとは違う考え方、違う生き方をしてしまうことを知るということです。パウロは「律法がはいり込んできたのは、罪過の増し加わるためである」と言っています。自分が罪を抱えており、罪に導かれて生きていることを知るためです。
 「しかし、罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれ」ました。罪は決して放置されることなく、救いへと招く神の恵みがますます満ちあふれたのです。神は、罪人をあきらめ、捨てることをなさいませんでした。ついには、ひとり子イエス キリストを救い主として世にお遣わしになり、救いの御業を成し遂げてくださいました。

 罪がわたしたちを死と結び合わせ、死によって支配するようになったように、神は、イエス キリストを通して信仰の義という恵みを与えることにより、主イエス キリストによって、わたしたちを信仰による神との正しい関係に招き入れ、神と共に生きる永遠の命によってわたしたちを満たし生かしてくださるのです。

 神がひとり子の命を差し出してまで、わたしたちに与えようとしておられる救いを、自分の願望や自己満足で失ってしまうことがないように、これでもかとパウロは語り続けるのです。
 それは、神があきらめておられないからです。神が、罪の増し加わったところにさえ、恵みをますます満ちあふれさせてくださったからです。パウロ自身が、決してあきらめない復活の主の恵みによって救われたからです。だからパウロはあきらめません。かつての自分のように、割礼や律法によってキリストの救いの恵みを拒絶してしまうことがないように、パウロは語るのです。

 神は、イエス キリストを信じる信仰の義によって、わたしたちを永遠の命に招き入れ、救うとお決めになって、ひとり子イエス キリストを救い主として世にお遣わしになられました。わたしたちの救いは、この神の御心にこそあるのであって、これ以外にはありません。

 

ハレルヤ

 

父なる神さま
 全世界の罪の贖いのためにひとり子イエス キリストをお遣わしくださったことを感謝します。わたしたちには、救いの時にあっても自分を満たそうとする罪があります。ただイエス キリストだけが自分では拭うことのできない罪から救い出してくださることを知ることができ、信じることができますように。あなたが与えてくださる命の恵みに与ることができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン