聖書の言葉を聴きながら

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ルカによる福音書 23:39〜43

2018年6月10日(日)主日礼拝

聖書箇所:ルカによる福音書 23:39~43(口語訳)


 イエスと一緒に十字架に付けられた二人の犯罪人がいました。マルコ(15:27)とマタイ(27:38)では「強盗」と書かれています。過越祭のために赦されたバラバは「暴動と殺人」(23:19)の罪で逮捕されていましたから、もしかしたらバラバの仲間という可能性もあります。いずれにしても、十字架はローマ市民権を持つ者には適応されない重い刑なので、ローマ帝国に対する罪を犯した者たちでしょう。
 この者たちは、一人はイエスの右側に、一人はイエスの左側に十字架に付けられました(23:33)。

 すると、一人がイエスに言います。「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ。」
 キリストとは、ヘブライ語のメシアのギリシャ語訳で「救い主」を表します。
 「救い主なら、自分を救い、俺たちも救え。救うのが仕事だろう。自分の仕事をちゃんとやれ!」
 彼は十字架に掛けられていますから、ローマ帝国に対する反逆、神の民ユダヤ人を異邦人ローマの支配から解放するために罪を犯したのかもしれません。彼は、神の民の解放のために働くとき、神が味方してくださるはずと思っていたかもしれません。しかし、神は味方してくださらなかった。救い主キリストと言われたナザレのイエスも、今自分の隣で十字架に掛けられ、何もできずにいる。彼は、神に対する不満が止まりません。彼はイエスに悪口を言い続けました。

 すると、もう一人が彼をたしなめます。「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。 お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」。
 彼はイエスと自分たちの違いに気づいています。自分たちは、自分がやったことの報いを受けている。しかし、イエスは何も悪いことをしていない。
 この人も十字架に掛けられているのですから、彼もまたローマに対する反逆、ユダヤ人の解放のために動いていたのではないでしょうか。彼は、民の間で評判になっているイエスのことを耳にします。イエスの姿を見たことがあるかもしれません。彼は民の救いのために命がけでローマに反逆します。しかし、民がキリストだと噂するイエスは、自分たちのような行動はしません。けれど、イエスのもとには遊女や取税人といった、人々から軽蔑されている「地の民」と呼ばれていた人々が集い、イエスは彼らと食事を共にします。彼の心は揺さぶられます。自分たちとは全く違うイエスの行動は、何なのか。自分たちこそ民の救いのために行動しているはずなのに、彼の心にはイエスがいるようになりました。

 それが今、イエスと共に十字架に掛けられているのです。彼の中で言葉にならなかった思いがほとばしります。「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。
 今、イエスも、彼も、十字架に掛けられていて、死を待つばかりです。しかし、彼はイエスに未来を見たのです。キリストが神の国の権威を持って再臨する未来を見たのです。遊女や取税人さえも迎え入れるイエス、指導者たちに妬まれ十字架まで負わされているのに、十字架の上でさえ嘲られているのに、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(23:34)と執り成し祈るイエス
 彼がどれだけ聖書に親しんでいたかは分かりませんが、イザヤ書53章の主の僕の歌を思い出したかもしれません。「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。彼は暴虐を行わず、その口には偽りがなかったけれども、その墓は悪しき者と共に設けられ、その塚は悪をなす者と共にあった。しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に/物を分かち取らせる。彼は強い者と共に獲物を分かち取る。これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。」(イザヤ 53:4~12)
 彼は思います。この方こそ、本当に救い主ではなかろうか。今、自分の前には死しか見えないけれど、この方はそこに救いをもたらすことができるのではないだろうか。彼はイエスに向かって告白します。「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。

 イエスは彼に答えます。「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。
 「よく言っておく」の「よく」は「アーメン」です。アーメンとは、ヘブライ語で「真実」という意味です。ですからここは「真実をもってあなたに告げる」という表現です。神の国の奥義を語るときに使われる表現です。
 イエスは、一緒に十字架に付いている彼の告白、願いに対して、「あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」と答えました。
 「パラダイス」というのは、訳すると「楽園」となります。けれど本来の意味よりも、パラダイスという言葉が旧約をギリシャ語に訳した七十人訳聖書では、エデンの園の訳語に使われたということの方が重要だと思います。神の民は、パラダイスという言葉に、神が祝福された命が満ちた世界を当てはめたのです。
 そして、それ以上に大切なのは「あなたはきょう、わたしと一緒に」という言葉です。イエスが一緒にいてくださる所、そこがパラダイス、楽園なのです。この世界、この空間のどこかにパラダイスがあり、地獄があるのではありません。主が一緒にいてくださる所こそ、パラダイスであり、主がおられない、神を見出すことができない、祈りが空しく消え去っていく所こそが地獄なのです。
 ですから、聖書では「わたしと一緒に」「わたしに立ち帰れ」「主と共に」「主に従って」という主と共にあることを表現する言い方がいくつもあり、そしてたくさん出てきます。イエスがお生まれになったときも天使は告げます。「その名はインマヌエルと呼ばれるであろう。」(マタイ 1:23)インマヌエルとは「神われらと共にいます」という意味です。われらと共にいます神、そのお方が救い主なのです。そしてイエスご自身、「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ 28:20)と約束されました。このイエス キリストと共にある、そこに救いがあり、そこにこそ神の祝福と恵みと永遠の命が満ちあふれる世界が開かれてくるのです。

 イエスは、ご自身に望みを置く者を拒絶されません。それが死の直前であったとしても遅すぎることはありません。一緒に十字架に掛けられた彼は、その生涯で神が与えてくださったことを心に留めて歩み、人生の最後にキリストに出会いました。その彼に対して、主は言われます。「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。

 聖書を告げます。「きょう、み声を聞いたなら、/神にそむいた時のように、/あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」(ヘブル 3:15)。すべての人の前にキリストへの招きがあります。神がお造りになったすべてのものを救いへと招くために、世界の各地に教会が建てられ、主の復活の日ごとに御言葉語られ、説教によって解き明かされます。すべての人の前に、キリストの招きがあります。そしてそのためにこそ、キリストは人となられ、世に来られたのです。
 今、神が皆さんをキリストへと招いておられます。キリストに心を向け、キリストに望みを置き、この十字架に掛けられた人と同じように「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」とイエスに願う者すべてに対して、イエスは答えます。「まことにあなたに告げよう。あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。


ハレルヤ