聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

ルカによる福音書 4:1〜4

2013年2月6日(日)主日礼拝
聖書箇所:ルカによる福音書 4:1〜4(口語訳)

 

 主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受け、救い主としての活動の最初に受けられた「荒野の試練」と呼ばれる出来事について聖書から聞きたいと思います。

 きょうは、三つ受けられた中の第一の試練です。
 「人はパンだけで生きるものではない。」有名な聖書の言葉です。そしてしばしば人々から揶揄されることの多い聖書の言葉でもあります。
 「人はパンだけで生きるものではない。そう、パンにぬるバターも必要でしょ。スープもなくっちゃ」「パンだけじゃダメだよね。日本人はやっぱりご飯と味噌汁がなくては」などと。
 けれど私は、その揶揄が一概に悪いことだとは思っていません。
 信仰が建前になっていくと、いざという時、本当に困難に出会った時に、役に立たなくなっていきます。それは、よそ行きの信仰、よそ行きの姿であって、「この危機の状態においてそんなことは言ってられない」というふうになってしまいます。
 ですからわたしたちは、神の言葉に対して自分の中で「えっ?」と問いが現れてくる、疑問が湧き上がってくる、それは大切に問うてみる必要があるのだろうと思います。
 わたしは六日間かけて説教の準備を進めていきます。その途中で、しばしば神に対してこういう問いかけをしながら、それでも神はこう言われるのかということを問いつつ、神の御旨を求めてまいります。

 「人はパンだけで生きるものではない。」それは分かります。けれども、「衣食足りて礼節を知る」というように、パンは生きる命の根源に関わることではないだろうか。やはりパンは大事ではないだろうか。ここでイエス様はなぜこの言葉をもって誘惑を斥けられたのだろうか。そういうことを問いながら、説教の準備をしてまいります。
 ですからわたしたちは、神の言葉の前、神ご自身の前に、よそ行きの服を着て、よそ行きの格好で出るのではありません。わたしたちのありのままの姿で ーそれはしばしば躊躇われることですー エデンの園で、神様が「どこにいるのか?」と問われた時にアダムが「わたしは裸ですからあなたの前に出られません」と応えたように、ありのままの、不信仰な、神の御心とは違う思いを抱く自分の姿のまま、神の前に出るということは躊躇われることです。けれど、そのわたしたちの姿を神は知っておられるし、知っていてなおわたしたちを愛し抜いてくださるお方なのです。
 わたしたちは本当に神の言葉を信頼して喜んで聴くことが出来るように、わたしたちの内にある問いかけ、疑問、神の言葉に対する否定、それをさえ神に受けとめていただかなくては、わたしたちの信仰は神の国へと進んでいくことは出来ないのではないか、そうわたしは思っています。

 さて、きょうの箇所ですが、4:1 イエス聖霊に満ちてヨルダン川から帰られました。
 この前のところで、イエスが洗礼を受けられたことが書かれています。3:21~22 イエスバプテスマを受けて祈っておられると、天が開けて、聖霊がはとのような姿をとってイエスの上に下り、そして天から声がした、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」
 この出来事があって、イエス聖霊に満ちてヨルダン川から帰って来られました。そしてその聖霊に導かれて荒野を40日の間、何も食べずに歩かれたわけです。4:2 荒野を四十日のあいだ御霊にひきまわされて、悪魔の試みにあわれた。そのあいだ何も食べず、その日数がつきると、空腹になられた。
 聖書においてこの40というのは象徴的な数字です。出エジプトの時にイスラエルの民が荒野を旅したのが40年という年数でした。ですからここで、イエス聖霊に導かれて荒野を40日歩き回られたのは、約束の地である神の国に入る旅を象徴する事柄でした。ですから、わたしたちにとって、この40日が象徴するものは、神の国に入るまでのわたしたちの人生そのものなのです。
 そして聖書が伝えているのは、その神の国に入るまでの人生において、わたしたちはここでイエスがお受けになられた3つの試練に遭うのだということです。これは試練が3回あるということではありません。わたしたちが荒野の旅をしていく限り、神の国に入るまでこの罪の人生をおくっていく限り、この3つの試練に繰り返し遭うのです。
 試練と訳された言葉は、誘惑とも訳される言葉です。試練は乗り越えれば信仰の成長となり、負けてしまうと神から次第に離れて行ってしまう誘惑となります。
 イエスは救い主として歩み出された時に、わたしたちが受ける試練、誘惑を自らお受けになって、何によってその試練を乗り越えていくのか、誘惑を斥けていくのか、どのようにして神と共に歩むのかをお示しくださいました。この時イエスは40日間何も食べず、空腹になられました。
 出エジプトの際、イスラエルの荒野の旅では、神はマナを降らせ、うずらを呼び寄せて食べる物を与えてくださり、モーセがその持っている杖で岩を打つと水が吹き出てきました。神に導かれて荒野を旅していくというのは、種を蒔いて収穫を得るのではなく、家畜を飼ってそれによって食べものを得るのではなく、神によって日々の糧が与えられるのだということ。わたしたちの一日一日は神によって支えられているのだということを、イスラエルの民はあの出エジプトの旅において経験させられたのです。
 ところが今イエスがこの40日間荒野を歩まれた時に、何も与えられない、かつて神はイスラエルにマナをお与えくださったけれども、今わたし(イエス)には何もお与えにならない。御心に適う者だと言われたのに、聖霊を注いでくださったのに、そしてその聖霊がここへと導いて来たのに、神から命を支える糧が与えられない。

 そこで悪魔がイエスに向かって囁き語りかけます。4:3 「もしあなたが神の子であるなら、この石に、パンになれと命じてごらんなさい」。
 これは実に巧妙な問いです。この問いに対してイエスは御言葉をもって斥けておられますので、この問いにのってはいけないということははっきり分かります。けれど、この要求の何がいけないのかということに気づくのは難しいことです。

 わたしたちの生きているこの社会において、人が一般的に持っている規範というのは「人に迷惑をかけてはいけない」という規範です。ところがこの求めは、人に迷惑など何もかけないのです。誰かから奪い取り搾取するのではありません。そしてただ単に私利私欲のために、私腹を肥やすためというのではなくて、今、命がそこにかかっているのです。もう40日食べていないのです。
 「あなたには、それをする力があるんだから、40日何も食べてないし、石をパンにかえてもいいんじゃないでしょうか」まるで悪意が感じられない、「あなたのことを心配しているのだ」と言っているかのような問いです。

 この問いの裏には、いったいどのような言葉が隠されているのでしょうか。それは、「神さまは頼りにならないんじゃないの」と、神への不信感を抱かせる言葉、神からわたしたちを引き離そうとする言葉、「あなたはこんなにお腹がすいている。空腹で倒れそうなのに、神さまは何もしてくれないじゃないの。神さまのことは当てにしないで、あなたには力があるんだから、自分のために自分の力でやったらいいじゃないですか」という言葉です。
 それに対するイエスの答えは、「わたしはパンを第一にしない。わたしが第一にするのは、神と共に生きることだ」ということです。それが、主イエスの言葉の中に含まれている事柄です。4:4 イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」。

 神の民の務めは、神と共に生きることです。神に信頼し寄り頼んで生きることです。わたしたちの命をお造りになり、そしてわたしたちを愛しわたしたちを救ってくださる真の神がおられるということ、そのことを生涯を通して証ししていくこと、それが神の民の第一の務めです。そして今この荒野の40日の歩みにおいても、「わたしたちの命を支えるためにはパンがなくちゃダメでしょ」という当然のような問いが湧き上がってくる中で、「わたしは神に信頼をし、わたしは神の御心に従って、与えられた力を用いるのだ」と、イエスは後に続く神の民にお示しくださったのです。十字架を負っても、その命を捧げても、神の御心こそわたしたちの救いであるということを証しするために主は来られ、今、その救い主としての生涯の最初においてこの試練に遭われたのです。

 「パンがあれば神なんか信じなくったって生きていけるじゃないですか。わたしはそうやって毎日生きていますよ」と、そう言う人たちがたくさんいる時代のただ中にわたしたちは置かれています。けれども、人はその人生の中で様々な出来事に出遭っていきます。試練に出遭っていきます。そのような中で、パンがあってもわたちのこの苦しみは何も解決されないというような出来事に出遭っていく時があります。そういう罪が支配する時代の中で生きている人たちに対して、わたしたちは「人はパンだけで生きるものではない」、パンは必要だし、パンを神に求めている、わたしたちは主から「日毎の糧を与えてください」と祈るように、主の祈りも与えられている。けれど、パンだけで生きるのではない。そしてパンが第一でもない。わたしたちの命を、このわたしの人生を支え、導き、そして救いに至らせるのはわたしを愛してやまない神ご自身であるということを証しする務めを負っているのです。

 最初に言いましたように、これが建前になると何の役にも立たなくなっていきます。
 わたしたちが生きている中で、「いや、神さま、そうは言っても、今のこの状況の中で、パンがないことには、仕事がないことには、どうやって生きていったらいいんですか」と思うときがあります。その時、そういう言葉や思いを封じなさいというのではありません。そういう思いも含めて、この言葉の前に立つのです。この試練を受けられた主イエスの前に立って、「イエス様、それはあなただから言えるんじゃないですか、わたしには到底無理です、苦しいです。」そういうわたしたちのありのままを主に受けとめていただく。どこか不信仰な部分は見せないでおいて、信仰的な部分でだけ神の前に出るのではなくて、わたしたちのすべてをこの主に受けとめていただくのです。
 聖書をぱっと読んで、一回説教を聞いて、なるほどその通りだとは思えないでしょう。けれど、この主の受けられた試練は、必ずわたしたちの人生に何度も何度も現れてきます。そして、それを乗り越えていく道は、主自らがお示しくださったように「神にこそ寄り頼む」ということなのです。

 「わたしの嘆きも苦しみも、わたしのすべてを主よ受け止めてください、支えてください、わたしはこのままでは立ってはいけません」と言って、祈り委ね、そして神によって新たなところへ導いていっていただくのでなければ、わたしたちの信仰は単なる飾りになってしまいます。わたしたちは、よそ行きの服を着て、背伸びをして礼拝に集い、神の前に立つのではありません。ありのままの罪も弱さも愚かさも抱えたままで、わたしたちは神の前に出、神に受け止めていただくのです。

 わたしたちを救うために、わたしたちと同じ姿をとり、わたしたちの受ける試練を先ず最初にお受けくださった主は、わたしたちの弱さも欠けも苦しみもご存じでなのです。主は知っておられるのです。その主に支えられ、導かれて、わたしたちはこの年も、この罪の世での歩みを主と共に歩み、神の国へと歩んでいくのです。

 

ハレルヤ