聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

ローマ人への手紙 5:6〜8

2018年4月22日(日)主日礼拝
聖書箇所:ローマ人への手紙 5:6~8(口語訳)

 

 きょうの箇所の中心は、最後に出てくる 8節の「まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示された」です。

 聖書は「神がわたしたちを愛しておられる」ということを語ります。
 神学の中には「神義論」というテーマがあります。これは「神は果たして正しいお方なのか」ということを論じるものです。このテーマが強く表れているのは、ヨブ記です。世の中にあっても「神がいるなら、なぜこんな悲惨で理不尽なことが起こるのか」と問いかけられることがあります。「なぜ悪が存在するのか」「神を信じる意味はあるのか」神についての疑問が世には渦巻いています。
 聖書はそれらの疑問に対して「神はわたしたちを愛しておられる」と答えます。きょうの箇所では「まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示された」と語ります。これは聖書のメッセージの根幹をなすものです。「キリストこそ、神がわたしたちを愛しておられる証である」と聖書は語ります。

 この神の愛は、すべてに先立つ愛であります。1ヨハネ 4:10では「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった」と言い、エペソ 1:4, 5では「天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さった」と語っています。

 この神の先立つ愛を、パウロは「わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さった」と語ります。
 「弱かった」とあるのは、後半に出てくる「不信心」を表しています。神の愛は、信じたから、信じているから注がれるものではないのです。キリストは、わたしたちが「弱かった頃」「不信心な」わたしたちのために十字架を負ってくださいました。

 7, 8節はキリストの十字架の唯一無二であることを表しています。あのキリストの十字架は、イエス キリストだけが成し遂げることができ、成し遂げたもので、神の愛を示すものであったことを伝えています。
 キリストは、神の御心を知らない者たちのために十字架を負われました。誰も十字架の意味を知らず、誰も感謝せず、失望し、嘲り、離れていく者たちのために十字架を負いました。ただキリストだけが、神の愛を知り、神に従いました。神に従う者に神が報いてくださることをキリストだけが信じていました。神の御業は、神の愛によってなされていることをキリストは信じておられました。

 わたしたちは、聖書から常にキリストの十字架の意味を聞き、信じてきました。日本キリスト教会信仰の告白は「旧・新約聖書は神の言であり、そのなかで語っておられる聖霊は、主イエス・キリストを顕らかに示し」と告白しています。このことをパウロは 5節で「聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれている」と言っているのです。神の愛であるイエス キリストが、絶えず聖霊によってわたしたちの心に注がれ、顕らかに示されているのです。
 聖書は「聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない」(1コリント 12:3)と語ります。会ったことも声を聞いたこともないイエスがわたしの救い主であるという信仰をわたしたちの内に造りだしてくださったのは、聖霊なる神であります。
 一般に聖霊なる神は、よく分からない、実感がない、と言われます。けれども、わたしたちが一番よく分かるのは聖霊なる神なのです。会ったこともない、声を聞いたこともない、はるか2,000年も昔、遠く離れたユダヤで生きた一人の人、その人がこのわたしのために十字架に掛かったなどとどうして信じているのか。それは、聖霊なる神がわたしたちに働いてくださり、わたしたちの内に信仰を造りだしてくださっているからです。聖霊なる神がイエス キリストの救いの恵みを「これはあなたのものだ」と言って、わたしたちが受け取ることができるように導いてくださったからです。ですから、イエス キリストを信じる者は誰もが聖霊を経験しています。「聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない」からです。
 ですから、パウロが言うようにわたしたちは「聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれている」のです。聖霊がわたしたちに働きかけ、御業をなしていてくださいます。
 そしてこの聖霊の働きによって、イエス キリストの約束がわたしたち一人ひとりの内に実現するのです。「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ 28:20)。目に見えないイエス キリストがどうして世の終わりまでわたしと共にいてくださるのか、それは聖霊なる神の働きによって、イエス キリストは今わたしたちと共にいまし、世の終わりまで共にいてくださるのです。
 だから、キリストにある希望は失望に終わることはないのです。なぜなら、聖霊がキリストの十字架の愛を注ぎ続けていてくださるからです。キリストの十字架は「あなたのためのものだ」と、聖霊が聖書を通して語り続けていてくださるのですから、神の愛は尽きることなく注がれ続けているのです。

 このイエス キリストだけが、わたしたちの救いの根拠であり、神の愛の証しなのです。
 ですから、神についてのあらゆる疑問に対して、聖書はイエス キリストを通して、神の愛があなたに注がれている、神はひとり子を給うほどにあなたを愛しておられる、御子を信じるあなたが、決して滅びることなく、永遠の命に至るためであると、繰り返し繰り返し語り続け「この人を見よ」とキリストを指し示すのです。

 パウロは、このイエス キリストを伝えるためにこの手紙を書きました。まだ会ったことのないローマの教会の兄弟姉妹と、救いの恵み、喜びを分かち合いたいと願ってこの手紙を書きました。そして、神はこの手紙をご自身の言葉とされました。だからわたしたちも、きょうこの手紙から神の御心を、神の御声を聞いたのです。

 神がわたしたち一人ひとりを顧みていてくださいます。聖霊なる神が、神の愛であるイエス キリストを注ぎ続けていてくださいます。わたしたちの罪や弱さや欠けや愚かさが、どれほど大きくとも、それに勝るイエス キリストの恵みが絶えることなくわたしたち一人ひとりに注がれ続けており、イエス キリストご自身が聖霊において世の終わりまでこのわたしたちと共にいてくださるのです。
 その神の御心を知るように、神の御業を受けるようにと、主はキリストの復活された日曜日ごとにわたしたちをご自身の許に、恵みの御座に、導き続けていてくださるのです。

 

ハレルヤ