聖書の言葉を聴きながら

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ローマ人への手紙 5:3〜5

2018年4月8日(日)主日礼拝
聖書箇所:ローマ人への手紙 5:3~5(口語訳)

 

 イエス キリストの贖いにより、わたしたちは信仰を通して義とされました。このことにより、わたしたちはイエス キリストにおける神との平和、そして救いの恵みに入れられました。それは神の栄光に与る希望をももたらしました。

 しかし、パウロはさらに語ります。「それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。」

 この箇所は比較的有名な箇所ですから、ご存じの方も多いと思います。ここは、「患難、忍耐、練達、希望、失望」と言葉が重なっていくので、日本語もリズムよく訳されています。ただそのためか、少し原文とはニュアンスが違う部分もあります。
 まず最初の「患難をも喜んでいる」ですが、これは「患難を喜ぶ」のではなく、「患難の中にあっても喜ぶ」というのが本来の文章です。患難自体を喜んでいるのではありません。患難自体を喜ぶのではなく、患難の中にあってもキリストが共にいてくださること、キリストの救いに入れられていること、困難の中にあっても神がこのわたしを覚え愛していてくださることを喜ぶのです。
 そして、この患難はキリストを信じたから生じる患難を指しています。迫害のような外部から来る患難もあれば、自分の内にある罪との戦いもあります。キリストに従って生きようとするときに起こってくるあらゆる患難のことです。信仰ゆえの患難の中でも、キリストと共にあることを喜ぶ、それが「患難をも喜んでる」が意味するところです。

 そして「患難は忍耐を生み出し」ます。忍耐は、待つ力です。何を待つかと言えば、キリストの勝利の現れるのを待つのです。神は民に待つことを求めてこられました。救い主の到来まで、アブラハムから約2,000年、出エジプトから約1,200年、バビロン捕囚から約500年、民は待ち続けました。そして今、わたしたちもキリストが再び来たり給う御国の到来を待ち望んでいます。そして忍耐は、待つと共に、キリストと共にあること、キリストから離れないことを示しています。ただ我慢するというのではなく、神の時が来て、神の約束が実現するをキリストにあって仰ぎ見つつ待つのです。キリストから離れずに待つのです。ですから、忍耐は常に信仰と共にあります。

 そして「忍耐は錬達を生み出し」ます。練達は金属が炉の中で練り鍛えられ、不純なものが取り除かれて、合格した金属を表す言葉です。イエスも「わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(マルコ 13:13)と言われています。神がお求めになる忍耐、待つこと、キリストと共にあることが、信仰を練り鍛えるのです。一般に考えられる修行が信仰を鍛えるのではありません。罪に世にあって、神の言葉を信じてキリストと共に生きることそれ自体が、信仰を練り鍛えるのです。
 ヤコブの手紙には「試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう」(ヤコブ 1:12)と書かれており、ここの「忍びとおした」と訳された言葉が、練達と訳された言葉です。忍耐は、いのちの冠に至る練達を育むのです。

 そして「錬達は希望を生み出す」のです。2節に「神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる」とありますように、いのちの冠と結びつく練達は、神の栄光にあずかる希望につながっていきます。神の栄光は、神の現れと共にあります。神が共にいてくださる、神がこのわたしのために御業をなしてくださる、その神の表れと共に神の栄光はあります。患難、忍耐、練達と続いて現れる希望は、神と共にある希望です。わたしたちがキリストと共にあるとき、それは患難さえも希望へと導くのです。このことを踏まえて、パウロは 8:28 で「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知って」いると言っているのです。

 そして、キリストの贖いによって与えられた希望は、失望に終わることはありません。ここも日本語のリズムを優先して訳されているところで、「失望に終わることはない」というのは「恥を来たらせない」と書かれています。これは、キリストが与えてくださった希望は、信じるあなたに恥をかかせない、という意味です。
 なぜなら、わたしたちの内に信仰を造り出し、キリストと結び合わせてくださる聖霊が、神の愛であるキリストをわたしたちに注ぎ続けてくださるからです。つまり、イエス キリストが十字架を負い、わたしの罪を贖ってくださり、死を打ち破って復活してくださったこと、そのイエス キリストの恵みのすべてがわたしに注がれていることを、聖霊が示し与え続けてくださるからです。

 実に、わたしたちの信仰、そして救いには、父なる神の御心、ひとり子イエス キリストの御業、聖霊の働きがあるのです。父・子・聖霊なる三位一体の神がご自身のすべてで関わってくださっているのです。生ける真の神が、このわたしに関わっていてくださる、それを知るのが信仰です。父・子・聖霊なる神が、希望が失望に終わらないように、信仰から信仰へ、恵みから恵みへと進んでいくことができるように、自ら関わっていてくださるのです。

 だからパウロは、神ご自身を信じます。神を信じているわたしの信仰を信じるのではなく、父・子・聖霊なる神ご自身を信じます。ですからパウロは、ここに至るまで、割礼や律法を守っているという自己満足で救われるのではなく、イエス キリストによって救われる信仰によって得られる義を語るのです。神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛してくださいました。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためであります。(ヨハネ 3:16)このわたしたちを愛し、わたしたちのために救いの御業をなしてくださる神ご自身によって救われるのです。ですから、神と出会うことを曇らせるような、キリストによる救いを薄めてしまうような別のことを信仰に持ち込もうとすることに対して、パウロはこれでもかというくらいに語ってきたのです。
 ですからパウロは告白します。「だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。・・わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。」(ローマ 8:38,39)

 神が、ひとり子を遣わしてまで与えてくださる救いは、わたしたちの全人生、悲しみも苦しみも涙も包み込み、喜びへと変えてくださる救いなのです。

 

ハレルヤ