聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

ヘブル人への手紙 12:1〜3

2018年3月18日(日)主日礼拝
聖書箇所:ヘブル人への手紙 12:1~3(口語訳)

 

 教会には、教会暦と呼ばれる教会の暦があります。クリスマスに備える待降節から始まり、降誕節、受難節、復活節、聖霊降臨節と神の救いの御業を辿りつつ1年を過ごします。今は、キリストの受難を覚える四旬節という期間にいます。
 四旬というのは40日を意味します。旬というのは10日を表します。今でも月の上旬、中旬、下旬というように月を10日ずつに分けて表します。四旬節はキリストの受難を覚える期間なので、復活を記念する日曜日は除いた40日ということで復活節の46日前の水曜日から始まります。この水曜日を灰の水曜日と呼びます。聖書に、悲しみの表現として灰をかぶるというのが出てきます。おそらくそれに由来するものだと思われます。この日カトリック教会では、信徒は司祭に額に灰で十字を描いてもらうという習慣もあるそうです。
 わたしたちの日本キリスト教会では、降誕節、復活節、聖霊降臨節の三大節以外はあまり気にしないので、教会暦を意識するのが少ないかもしれません。きょうヘブル人への手紙から御言葉を聞くのは、教会暦によるものです。次の日曜日が棕櫚の主日と呼ばれる日曜日で、その週が受難週と呼ばれ、さらに次の日曜日が復活節となります。

 さて、きょうの聖書の中心は「イエスを仰ぎ見つつ、走る」ということです。特に「イエスを仰ぎ見る」ということは、教会で何度も何度も語られ示されることです。讃美歌においても「主を仰ぎ見れば」「十字架の主イエス」と歌われ、「この人を見よ」と示されます。
 きょうの聖書は仰ぎ見るべきイエスを「信仰の導き手」と言い、「その完成者」と言います。
 近代以降の社会においては、自分が出発点であり、自分が視点の中心です。「我思う故に我あり」の世界です。信仰においても、わたしの信仰であり、どう信じるかはわたしの自由だと考えがちなのも、近代の信仰の特徴の一つです。一見するととても自立したあり方のように思えますが、これは罪ある自分に縛られ、囚われている考え方です。これは神と共に生きる信仰ではありません。罪ある自分を基準とし、罪ある自分の正しさに囚われている限り、どこまで行っても罪から離れることはできず、神に立ち帰ることはできません。
 神が与えてくださる信仰は、罪ある自分からも解放され、自分自身から自由になる信仰です。それはイエス キリストの信仰です。それは「どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」(マルコ 14:36)と祈り、十字架へと進まれたイエス キリストの信仰です。自らの思い、願いは神に祈り、聞いて頂き、受け取って頂いた上で、神の御心に従い行く信仰です。まさしくイエス キリストは信仰の模範、「信仰の導き手であり、またその完成者」なのです。ですから、わたしたちは常に聖書から、そして教会で歌い継がれてきた讃美歌から「この人を見よ、主を仰ぎ見よ」と示されてきたのです。イエス キリストを見つめ、イエス キリストの御跡に従う、イエス キリストから離れず、イエス キリストと共にある、それがわたしたちの信仰が主の御心にかなっていく大切なあり方なのです。

 聖書はさらに語ります「彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである」。
 神は、イエス キリストの信仰がどこに至るのかを、その復活と召天によって証しされました。神が備えていてくださる自分に用意された喜びが、一体どのようなものかをキリストは命をかけて証しされました。イエス キリストによってわたしたちは、神へと至る信仰を知ったのです。わたしたちを救いへと導き、神の国へと誘うただ一つの信仰が、イエス キリストに従い行く信仰なのです。

 聖書はこの信仰を「わたしたちが参加すべき競争」と例えます。わたしたちはそれを「耐え忍んで走りぬかねば」なりません。それは、信仰というものが生きていくことそのものだからです。罪に導かれて、死と滅びに至るゴールに向かうのか、キリストに従い、神の国と永遠の命に至るゴールに向かうのか、そのどちらかを選ばねばならないからです。競争に例えているのは、それが全力で挑む苦しさを超えてゴールにたどり着かねばならないからです。イエス キリストご自身、苦しみを負って信仰を証しされました。そして聖書に記されている数多くの証し人たちも神の御心に従う信仰の道を歩みました。罪の世に生まれ、生きている限り、わたしたちには様々な苦しみが降りかかってきます。けれど、どこに向かって、苦しみのある世を生きるのか。神は御言葉を通し、イエス キリストを通して「あなたの歩むべき道はこれだ」と示していてくださいます。その神の示された道が、どこに至るのか、それをキリストがご自身の復活、そして召天によって、神の御許に至る道なのだということを示してくださいました。

 だから聖書は「いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競争を、耐え忍んで走りぬこうではないか」と呼びかけます。
 わたしたちは罪によって滅びるために造られたのではありません。救いに与って神を喜び、その神に造られた自分を喜び、世界を喜ぶために造られたのです。

 この信仰を走り抜くには、耐え忍ぶ忍耐と、重荷と罪とを捨てることが必要です。忍耐も捨てることも、イエス キリストを見つめること、仰ぎ見ることを通して与えられるものです。
 わたしたちが自分自身にとって益となること都合のいいことそのことを基準とするのであれば、耐え忍ぶことも避けるし、捨てることもしないでしょう。しかし、それがどこに至るのかをわたしたちは分かっていません。自分によかれと思い、自分の益だと思ってその道を選んでも、それがどこに至るのかを実はわたしたちは知らないのです。けれど神は、イエス キリストを通して、そして雲のように多くの証し人たちによって、神と共に生きる道にこそ救いがあり、祝福があるということを証ししてこられたのです。ですから、わたしたちがこの神が与えてくださった信仰の道を走り抜くには、イエス キリストを見つめること、仰ぎ見ることが大切なのです。

 信仰をキリスト以外、神以外のところから得ようとすると、間違っていきます。何を捨てるのかについても、神が導きの中で示されます。ですからわたしたちは「主よ、御心をお示しください」と祈りつつ歩んでいく中で、神が「捨てよ」と言われているものに気づかされていくのです。そしてキリストへと思いを向けていく中で、捨てる決断をも与えてくださいます。「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう」(マルコ 8:35)とイエスは言われます。命も良きものもすべて神が与え給うものです。わたしたちは、命もすべての良きものも、神から受け取るのです。

 そして神はわたしたちに、命もすべての良きものも与えようとしておられます。そのために主の日ごとに礼拝へと招き、キリストを仰ぎ見ることができるようにしてくださっています。だからこそ今、「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうでは」ありませんか。神は限りない祝福を備えて、わたしたちをを招いておられます。

ハレルヤ