聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

ローマ人への手紙 5:1, 2

2018年3月11日(日)主日礼拝
聖書箇所:ローマ人への手紙 5:1~2(口語訳)

 

 パウロは、3章21節から4章の終わりまで「キリストを信じる信仰による神の義」について語ってきました。いわゆる信仰義認についてです。
 信仰義認について考えるとき、気をつけねばならないのは、律法と信仰を交換しただけで、結局自分で義を立てようと考えてしまうことです。
 どれだけ本気で信じているか、本当に信じているならこうするはずだとか考えて、自分で勝手に基準を作り、自分も人も裁いてしまう。それは律法を信仰に交換しただけの律法主義です。

 聖書が伝えているのは、キリストがわたしの救いとなってくださったこと、キリストがご自分の命をかけてわたしの罪を贖ってくださったこと、わたしはキリストによってのみ義とされることです。わたしたちはキリストによって救われ、義とされるのです。わたしたちは、キリストを信じる自分の信仰によって救われるのではなく、キリストご自身によって救われるのです。キリストを信じる自分の信仰は、キリストの救いを受け取る器なのです。神は、キリストの救いを、信じるという仕方で受け取らせてくださるのです。

 もちろん、信じることも大事です。罪によって信じられなくなったわたしたちに神が与えてくださった恵みです。信じること自体恵みです。神が、信じることのできる愛と真実をイエス キリストによって与えてくださったので、わたしたちはキリストを信じることができるのです。イエス キリストによって、神との間に信じるという関係が造り出されたのです。
 わたしたちが生きているこの罪の世は、罪ゆえにいろいろ信じられないことがたくさんあります。けれども、わたしたちは何も信じることができないとしたなら、生きていくことができません。わたしたちが生きていくということは、信じることによって支えられています。それは100%の信頼でなくとも、家族の間に、友との間に、そして隣人との間に信じられる関係があってこそ、わたしたちは生きていくことができます。けれど、罪の中で傷つき、疲れてしまうわたしたちに対して、罪により滅びへと導かれて行ってしまうわたしたちに対して、神はイエス キリストによって本当に信じることのできるもの、自分の人生を、そして愛する者たちを委ねていくことのできる信じることのできるものを、与えてくださいました。イエス キリストによって、神との間に、今生きているということに対して信じることのできる関係を、イエス キリストが与えてくださいました。

 ですから、神が与えてくださった恵みは、感謝するものであって、誇るものではありません。先ほど言ったように、わたしたちが信じているということによってわたしたちは救われているのではありません。イエス キリストによって救われるのであり、そのことをわたしたちは、罪の中で持つことのできなかった信じるということを通して与えられるのです。
 これまで何度か語ってきましたけれど、わたしたちはイエス キリストに会ったことがありません。触れたことがありません。その声を聞いたこともありません。けれども、何故かこの方がわたしの救い主だと信じています。本来あり得ないところに、神は信じるという恵みを奇跡によって与えてくださいました。信じて生きることができるように、神との間に信じるという関係を築いて、そして神が造られ、神が愛されているこの世界に希望を持って生きることができるようにと、神は信じることを恵みとして与えてくださいました。ですから、それは感謝するものであって、誇るものではありません。わたしたちが誇るべきは、恵みの源であるイエス キリストご自身です。

 キリストを信じる信仰による義は、キリストご自身に対する喜びと感謝をもたらします。そしてここでパウロが言うように、信仰による義は、喜びと感謝に満ちた神との平和をわたしたちに与えます。パウロは言います。「このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。」
 聖書が語る平和は、争いがない状態ではありません。共にあることを喜べる、出会えたことを感謝できる平和です。争いはないけれど、無関心な状態は平和とは言いません。一緒に生きている人が苦しもうと悲しもうと関係がないという状態は、平和ではありません。そしてこの平和は、神との平和から与えられるものだと聖書は告げています。

 念を押すようですが、この神に対する平和の鍵となるのは、「わたしたちの主イエス・キリストにより」という一言です。
 そして続く2節でも「さらに彼(キリスト)により」「いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ」た、とパウロは語ります。キリストによって救われた過去は、今の恵みへと絶え間なく続いています。さらに今のこの恵みは、未来へと続いていきます。
 パウロは、今のこの恵みには「神の栄光にあずかる希望」があると言います。
 栄光という言葉は、聖書においては神の顕現、神が現れ給うことと関わります。このわたしの救いのための御業が現れることです。神がこのわたしのために生きて働いておられる、その救いの出来事を経験する、そのとき神の栄光が現れたと聖書は告げます。
 今はまだ罪を引きずりながら歩んでいますけれども、救いの完成を経験し、神が「よかった」と言って造ってくださったわたしはこんなにも「よかった」のかと喜べる、それが神の栄光に与る希望です。そのように神と一緒によかったとこのわたしも言うことができる、そういう希望をこの神との平和の中で、与えられていると言うのです。死を超えて、復活し、キリストと同じ姿に変えられたことを「主はこのような恵みを与えるために死んでよみがえってくださったのか」と喜べる時が来るという希望です。

 キリストがもたらしてくださった救いの恵みは、わたしたちを義とし、今の平和に与らせ、未来の希望を与えてくださいました。
 この世では「一寸先は闇だ」などと言いますが、キリストにあるわたしたちは違います。神との平和、神の栄光に与る希望をもって喜んで生きています。
 神はこの喜びに生きるようにと、キリストを信じる信仰を与えてくださり、信仰による義を与えてくださったのです。

 信仰が与えられていることを喜びましょう。自分自身の目には、弱く頼りない信仰に思えるかもしれません。しかし、その信仰を通して注がれてくる神の恵みは、大きいのです。計り知れないほど大きいのです。信仰という器を神の御前に差し出して、注いでくださるままに受けましょう。
 わたしたちは、神が与えてくださる平和と恵みに生きるようにといつも招かれています。それが確かであることを、繰り返し覚えるために、神は礼拝へと招いてくださいます。そしてキリストの恵みに与って生きるようにと、洗礼と聖晩餐の恵みを与えていてくださいます。神がこのようにわたしたちに平和を与え、喜びと感謝をもって生きられるように、神を信じていきられるようにと、恵みを備えていてくださっています。この神が与えてくださる平和と恵みに共に生きていきたいと願っています。

ハレルヤ