聖書の言葉を聴きながら

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ローマ人への手紙 4:23〜25

2018年2月25日(日)主日礼拝
聖書箇所:ローマ人への手紙 4:23~25(口語訳)

 

 「しかし『義と認められた』と書いてあるのは、アブラハムのためだけではなく、わたしたちのためでも」ある、とパウロは語ります。「わたしたちのためでも」あるからこそ、パウロはここまで丁寧にアブラハムについて、「信仰による神の義」について語ってきたのです。
 パウロは 3章21節から「信仰による神の義」を語ってきました。3章22節では「イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるもの」だと述べています。ですからきょうの箇所でも「『義と認められた』と書いてあるのは、アブラハムのためだけではなく、わたしたちのためでも」あると語るのです。
 そしてきょうの箇所でも続けて「わたしたちの主イエスを死人の中からよみがえらせたかたを信じるわたしたちも、義と認められるのである」と語るのです。
 つまり、神が語られる言葉、神がなされる御業を受け入れ、神ご自身を信じる者が義とされるのです。神とわたしたちとの関係は、信じるという関係こそ、義なる正しい関係であると、神はアブラハム以来そう啓示してこられたのです。

 信じるということを、教会では繰り返し聞いています。それは、わたしたちは罪のために信じるということができなくなっている、神にかたどって造られているわたしたちには神との間に信じるという関係が必要である、ということを伝え、神と共に生きるときに信じるということが、大切な事柄であると、神が示し与えてくださっているからです。
 信じることのできる関係というのは、一つの理想です。裏切られることなく、失望されられることのない安心できる信頼関係は、人が最も必要とするものの一つです。

 合同例会で読んでいるノートルダム清心学園理事長をしておられた渡辺和子シスターの『置かれた場所で咲きなさい』という本の中にこんな言葉があります。「信頼は98%。あとの 2%は相手が間違った時の許しのためにとっておく」という言葉です。さらにそこには「私でも、100%信頼されたら迷惑だといいます。私も間違う余地を残しておいてほしいから。誠実に生きるつもりだけれど、間違うこともあるかもしれないし、約束を忘れることもあるかもしれない。そういう時に許してほしいから」と書かれています。なるほどと思わされる言葉です。

 わたしたちは罪を抱えた人間に完璧な信頼を求めることはできません。ただ神だけがどんな時にも信じることのできるお方です。アブラハムの生涯、その後に続くイスラエルの歩みを通して、神はご自分こそ信じることのできる神であることを証しし続けてこられました。そしてついには、ひとり子イエス キリストを救い主として世に遣わして証しされたのです。
 25節では「主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである」と言われています。何という不平等な交換でしょうか。主イエスは、わたしたちの罪を負ってくださり、代わりに義と復活の命を与えてくださるのです。それをイエスは最後の晩餐において弟子たちに示されました。わたしたちが信じて義とされるために、わたしたちの罪を引き受け、死を打ち破り、復活されたのです。そこまでして、神を信じて、神と共に生きるようにと、イエス キリストは救いの御業をなしてくださいました。
 これが、アブラハム以来神の民に与えられてきた「信仰による神の義」だ、信じることによって与えられる神の義だ、そう言ってイエス キリストに出会って信じるようにと、神はお語りになり、御業をなされ、そして代々に渡って聖書を通してイエス キリストと出会うようにしてきてくださいました。

 ヘブル人への手紙では「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」(11:1)と言われています。わたしたちもまだ誰も死を経験しておりません。けれど、イエス キリストの十字架と復活によって、まだ死も経験していないけれども、復活という「望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認」して、イエス キリストを信じることへと導かれたのです。
 イエス キリストは、神の言葉となって世に来られました。神の言葉が出来事となり、神の真実が現されたのを、わたしたちはキリストにあって見たのです。恵みとまこととに満ちた神の栄光が、キリストにおいて現されたのをわたしたちは見たのです。
 イエス キリストは、命をかけて神が信じることのできるお方であることを証しし、わたしたちを信じることへと招いておられます。神を信じ、義とされて生きる幸いへと招いておられます。
 わたしたちが誰かから100%信じられるなどというのは、先ほどの本の紹介でも言いましたように、重荷でしかありません。そんなことには応えられません。けれど、わたしたちを造り、わたしたちを愛し、わたしたちを救われる神は、わたしたちのどのような思いをも受け止め、わたしたちが罪から贖い出され、信じる者へと、神の赦しの中で愛する者へと歩んでいくように、受け止め導いてくださるお方です。
 信じることを求める者は、神にこそ求めるのです。信じられない世にあって、神ご自身が信じられるものとなってくださいました。イエスは言われました。「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。」(ルカ 11:9)そして「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」(ヨハネ 20:27)と。ご自分の釘打たれた掌、ヤリに刺された脇腹をお示しになって、あなたのために必要なすべてことはわたしが成し遂げたから、信じない者にならないで、信じる者になって生きなさいと、キリストはわたしたちを信じる幸いへと招き続けていてくださるのです。

ハレルヤ