聖書の言葉を聴きながら

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ローマ人への手紙 4:17b〜22

2018年2月11日(日)主日礼拝
聖書箇所:ローマ人への手紙 4:17b~22(口語訳)

 

 パウロは「信仰による神の義」について語り続けます。それは、同胞であるユダヤキリスト者たちが割礼や律法を誇りとするのではなく、イエス キリストの救いに与るためであり、救いを求めている人たちが間違った信仰に入るのを防ぐためです。
 パウロは「信仰による神の義」について、アブラハムを示しつつ語ります。

 今回は、17節にある「わたしはあなたを立てて多くの国民の父とした」という神の御業が、「信仰による神の義」に与えられた恵みであることを示そうとしています。
 パウロは、割礼について語ったとき、アブラハムが割礼を受ける前の神の約束に基づいて「信仰による神の義」を語りました。ですから今回も、パウロの考えにあるのは、割礼以前の神の約束です。アブラハムが割礼を受けたことは、創世記 17:26に記されています。ですから、それよりも前の約束です。
 創世記 12:2では「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう」と神は約束されました。そして創世記 15:5では「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい」と言われ、「あなたの子孫はあのようになるでしょう」と言われました。そして割礼の直前、創世記17:5では「わたしはあなたを多くの国民の父とする」と言われました。
 前にも申し上げましたが、神がアブラハムに約束されたのは「人」であります。13節には「世界を相続されるとの約束」と言われていますが、ここで言う世界は領土としての世界ではなく、人なのです。
 パウロは、「アブラハムは死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じた」と言います。天地創造の神、イサクを焼き尽くす供え物から贖い出される神、そしてキリストを死者の中から復活させられる神、つまり命の神をアブラハムは信じたのだとパウロは言います。
 アブラハムは「望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。そのために、『あなたの子孫はこうなるであろう』と言われているとおり、多くの国民の父となった」と言うのです。ヘブル人への手紙では「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」(11:1)と言われていますが、アブラハムは自分の子孫となる多くの国民を見てはいません。見たこともありません。まさに見ずして信じたのです。アブラハムは神を信じたのです。神の真実を信じたのです。

 およそ百歳となって、アブラハム自身のからだが死んだ状態であり、また、サラの胎が不妊であるのを認めながらも、なお彼の信仰は弱らなかった。アブラハムは、神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず、かえって信仰によって強められ、栄光を神に帰し、神はその約束されたことを、また成就することができると確信したのです。
 アブラハムは神を信じました。自分の信仰を信じたのではなく、自分の信仰の確かさを確認したのではなく、ただ自分に語りかけ約束してくださった神を信じ、神の真実を信じました。
 パウロは「だから、彼は義と認められた」と言います。

 創世記を読んでいきますと、アブラハムは妻の美しさゆえに不安になり、妻を妹だと言ったために、妻はエジプトの高官に召し入れられました。神を信じているから、不安にならないとか、恐れないということはありません。けれど、神が語りかけられたとき、神の声を聞いたとき、アブラハムは神を信じたのです。神はそれ故にアブラハムを義と認められました。
 義というのは、関係の正しさを表します。神が語りかけられたとき、神の言葉を信じるのが正しいと示されたのです。
 信じて神と共に生きるのです。そのとき、神がなされる恵みの御業は、信じる者に与えられるのです。

 ヨハネによる福音書1章で言われているとおり、イエス キリストは神の言葉です。「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。」(ヨハネ 1:14)「神は、御旨によって、御子のうちにすべての満ちみちた徳を宿らせ、そして、その十字架の血によって平和をつくり、万物、すなわち、地にあるもの、天にあるものを、ことごとく、彼によってご自分と和解させて」(コロサイ 1:19, 20)くださいました。神は、御子イエス キリストにおいて救いの御業を成し遂げてくださり、わたしたちを救いへと招いていてくださいます。わたしたちが、このただ一人の救い主イエス キリストを信じるとき、わたしたちは神が救いの約束を成就してくださり、神がわたしたちの救いとなってくださったことを信じるのです。そのとき、神とわたしたちとの間に「信じる」という義なる関係が生じるのです。神は、わたしたちがキリストを信じて、神の救いを受け入れたことを義と認めてくださるのです。

 わたしたちの善き業は、神への感謝の応答であって、自分で救いを獲得するためのものではありません。わたしたちは、神がわたしたちの救いの神であり、イエス キリストがわたしたちの救い主であることを信じることにより、義とされるのです。わたしたちの信仰が確かだから、立派だから救われるのではありません。神が真実であってくださるので、わたしたちは神によって救われるのです。

 この神の救いの御業の前では、割礼がある人もない人も、ユダヤ人も異邦人も、奴隷も自由人も、男も女も区別されません。
 「実に,すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。」(テトス 2:11)「わたしたちは,主イエスの恵みよって救われると信じているのです。」(使徒 15:11)

 律法の代わりに自分の信仰で救われるのではありません。わたしたちの信仰は弱くもろく迷いやすく、不十分です。わたしたちに代わってイエス キリストが、死に至るまで神を信じ抜いてくださいました。ですからわたしたちは、主イエスの恵みによって救われると聖書は語るのです。
 自分の信仰が、弱い小さい不十分だと、自分で自分を測ることには意味がありません。自分で自分の信仰を見て、わたしの信仰は立派だなどと言ってもそれによって救われるわけではないのです。わたしたちが目を向けるべきは、自分自身の中ではなく、自分の信仰の確かさを求めるのではなく、イエス キリスト、このわたしのために、わたしが裏切る者であり、逃げる者であることを知っていながら、このわたしのために、十字架を負い、命を献げてくださったあのイエス キリストによってわたしは救われる、そこへと聖書はわたしたちの思いを導いているのです。そして、このイエス キリストの前で、救いに与る資格がないと悲しまねばならない人は一人もいないのです。「実に,すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れた」と聖書は語っています。
 アブラハムが、望み得ないところでなお望んだように、わたしたちがこの世を見るなら、罪人の頑なさを見るなら、とてもとてもこの人が救いに入るとは思えない、この世が救われるとは思えない。けれども、その望み得ないことを、神は成し遂げられるのです。そのためにひとり子の命さえお与えくださいました。わたしたちもアブラハムと同じように、その神を信じることへと、自分が神を信じているそのことが確かかどうかというその自分に向かって思いを向けるのではなく、神がお語りくださったこと、そしてそれが出来事となったことを見るのです。アブラハムは多くの国民の父となるというそのことを見なかったけれども、最後までそれを信じ抜いた、そして時を経て、その神の約束は確かだったということを、わたしたちは見ているのです。ですから今、わたしたちが見る世界が、自分が、隣人たちが、どれほど望み得ない状態にあっても、神は救いをなされるのだと、神はイエス キリスト、ご自分のひとり子をすべての人々に救いをもたらす恵みとしてお与えくださったと、「神を」信じるのです。
 その時わたしたちは、神にあって、望み得ないところ、たとえ死であっても、それを打ち破ってキリストは復活された、その神の御業を見る中で、どのような時にあっても、どのような状況にあっても、なお神を仰ぎ見る時に、神にある望みを与えられるのです。その恵みに与るように、それを喜び、そして神を讃え感謝するようにと、パウロはここまで割礼について律法について語り、信仰による神の義をわたしたちに伝えているのです。

ハレルヤ