聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

創世記 21:1〜8

2017年11月26日(日)主日礼拝 宇久井伝道所(14:00)
聖書箇所:創世記 21:1〜8(口語訳)

 

 「主は、さきに言われたようにサラを顧み、告げられたようにサラに行われた」と聖書は語ります。

 18章で、主はアブラハムに現れました(18:1)。このとき主は三人の人となって、アブラハムのところに来られました。アブラハムは何故かこの三人が主であると気づきます。アブラハムは彼らを迎え「わが主よ、もしわたしがあなたの前に恵みを得ているなら、どうぞしもべを通り過ごさないでください」と言って彼らをもてなしました。食事の後、一人が「来年の春、わたしはかならずあなたの所に帰ってきましょう。その時、あなたの妻サラには男の子が生れているでしょう」(18:10)と告げます。
 サラは心の中で笑って言いました、「わたしは衰え、主人もまた老人であるのに、わたしに楽しみなどありえようか」。その時、主はアブラハムに言われます「なぜサラは、わたしは老人であるのに、どうして子を産むことができようかと言って笑ったのか。主にとって不可能なことがありましょうか。来年の春、定めの時に、わたしはあなたの所に帰ってきます。そのときサラには男の子が生れているでしょう」。その言葉を聞いて「サラは恐れ、これを打ち消して答えます『わたしは笑いません』。けれど主は言われます『いや、あなたは笑いました』。」(18:12~15)

 そして神の言葉どおり「サラはみごもり、神がアブラハムに告げられた時になって、年老いアブラハムに男の子を産」みました。アブラハムはこの子をイサクと名付けます。その後「アブラハムは神が命じられたように八日目にその子イサクに割礼を施し」ました。「アブラハムはその子イサクが生れた時百歳であった」と聖書は告げます。そしてサラは言います「神はわたしを笑わせてくださった。聞く者は皆わたしのことで笑うでしょう」。
 新共同訳聖書はここをこう訳しています。「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう。」 イサクという名が「笑い」という意味の名前だということが分かります。
 ここは、面白くて笑うとか、楽しくて笑うではなく「こんなことがあるのか」という驚きの笑いです。
 ですからサラは「サラが子に乳を飲ませるだろうと、だれがアブラハムに言い得たであろう。それなのに、わたしは彼が年とってから、子を産んだ」と言います。

 おそらく人は、サラがイサクを「わたしの息子です」と紹介し、周りの者が「養子ではなく、本当にサラが産んだ子です」と証言しなければ信じないような事柄です。
 しかし聖書は、信じられないような驚きをわたしたちに告げます。神のひとり子が救い主となるため人となって、しかも幼子となって世に来られた。その救い主がわたしたちの罪を負って十字架に掛かられた。さらに三日目に復活された。この救い主を信じる者は罪を赦され、永遠の命に入れられる。神の国に入れられる。どれもそんなことあるかと突っ込みどころ満載です。神の約束を聞いたときサラが笑ったと同じように笑うより他はない事柄です。

 わたし自身、理科の教師になろうとしていた高校生の時、神を信じている人をばかにして笑っていました。しかし今は、驚くべき神を信じている者です。救いの完成、神の国の到来を信じる者です。皆さんも驚くべき神の御業を信じてくださるでしょうか。

 聖書は、驚きに満ちています。笑ってしまうほどの驚きに満ちています。神の御業はわたしたちの思いを超えています。わたしたちはその驚くべき神の証人として召されました。皆さんが、この驚くべき真の神に出会い、その御業を経験し、たくさん驚き、たくさん笑ってくださることを願っています。

ハレルヤ