聖書の言葉を聴きながら

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ローマ人への手紙 4:6〜8

2017年11月26日(日)主日礼拝
聖書箇所:ローマ人への手紙 4:6〜8(口語訳)

 

 パウロは「価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされる」(3:24)と語ります。そして「人が義とされるのは・・信仰によるのである」(3:28)と告げます。4章に入ると、神がイスラエルを導かれる中でそのことを明らかにしてこられたことを、アブラハムによって証ししようとしています。きょうの箇所ではダビデの祈りが引用されます。

 「ダビデも、行いによらずに神から義と認められた人の幸いを、次のようにたたえています」と言って、詩篇32:1,2を引用します。「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、幸いである。主から罪があると見なされない人は、幸いである。」これは、七十人訳と呼ばれる旧約のギリシャ語訳からの引用です。
 そして、詩篇32は、七つの悔い改めの詩篇の一つです(詩篇6, 32, 38, 51, 102, 130, 143)。

 ご存じのように、ダビデにはバテシバとの姦淫。そしてそれを隠そうとして夫のウリヤを謀殺するという罪を犯しました。そのこともあってでしょうか、七つの悔い改めの詩篇の内5つの表題に「ダビデの歌」とあります。
 ダビデイスラエルの偉大な王です。しかし、彼の生涯が語られるとき、バテシバに関わる彼の罪が常に語られます。それは密かな噂話ではなく、聖書に記され、公の場で朗読されるものです。それはダビデにとって、また子孫にとって恥以外の何物でもありません。しかし神は、それを隠すこともなかったことにすることもお許しになりませんでした。ダビデの罪は、神の赦しを証しするために用いられました。

 義というのは、正しい関係にあることを指します。共にあることを喜べる関係にあることです。罪人が、神から義とされるのには、まず神の赦しが必要です。そのことを引用された詩篇32では「赦される、覆われる、認められない」という3つの受け身形の動詞で表します。受け身ということは、これら3つは神の恵みとして与えられるということです。恵みであるということは、対価として与えられるのではなく、それを請求する権利も資格もない者に、神の慈しみにより与えられるということです。

 「赦される」というのは、過去を問われないということです。大目に見るのでも、我慢するのでもなく、罪ある過去から解放されるということです。赦しというものは、おびえることなく、心から喜ぶことのできることなのです。

 赦されても罪を犯した事実は変わりません。赦されても、再び罪を重ね、神の前に出られなくなるのがわたしたち罪人です。けれど、わたしたちの罪を赦してくださる神は、神の前に進み出ることができるように、わたしたちを義の衣で覆ってくださるのです。不思議なことに「義」という漢字は、我の上に羊をかぶるのです。神の小羊イエス キリストによって自分を覆って頂いたとき、服を着るようにキリストを着せて頂いたときに、わたしたちは義とされるのです。

 詩篇はこのように不法を赦され、罪を覆われた人は幸いであると告げています。赦され、覆われて、罪を主に認められない人は幸いであると言っています。

 聖書は山上の説教を始めとして、神の恵みに与った者の幸いを語ります。詩篇32は赦しの幸いを語ります。「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、/幸いである。主から罪があると見なされない人は、/幸いである。」

 わたしなどは、秘密にしておきたい恥を聖書によって世の終わりまで語られ露わにされることのどこが幸いなのか、と思ってしまいます。けれど、本当に神に赦され、罪を覆われたことをダビデは知っているのです。ダビデは恥を感じているのではなく、喜んでいるのです。歓喜しているのです。赦しを通してダビデは神と出会い、今までよりもさらに深く神を知り、神を喜んだのです。赦しの中で神を知り、恵みを感謝を持って受けた、このわたしを慈しんでくださる神を信じることのできる幸いを味わった。だからダビデは「幸いだ」と神にあって喜ぶのです。

 パウロは、わたしたちが受ける幸いもこれなのだ、と伝えています。自分の業や割礼によってこの喜びを薄めたり、濁らせたりせずに、この神の赦しの恵みを喜ぶように、そして赦しを通して神に出会い、神を知るようにと招いているのです。
 自分のすべてを知っておられる神が、このわたしを赦し受け入れてくださる。聖書が伝える赦しというのは、義なる関係へと招き入れる赦しです。ですから、赦された者は、神を喜び、神と共に生きていくのです。神から離れずに、また共に歩めるようにとわたしを受け入れてくださる。その神の恵みに出会っていくのです。

 そのためには、神の恵みにより、キリスト イエスによる贖いによって義とされたことを信じ、神の恵みイエス キリストに依り頼むのです。
 教会の迫害者であったパウロ自身が、この神の赦し、キリストの贖い、それによって自分も罪赦され、神の御業に仕える者として新たにされ用いられていることを知っています。罪人が、神によって救われ用いられ、祝福される、その働きを神が祝福してくださいます。この恵みと幸いを共に分かち合うため、これがあなたに与えられている恵みなんだ、喜びなのだ、代々の聖徒たちと共にこれを感謝して受けよう、喜ぼうと、パウロはわたしたちを招いているのです。

ハレルヤ