聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

ローマ人への手紙 4:1〜5

2017年11月12日(日)主日礼拝  
聖書箇所:ローマ人への手紙 4:1〜5(口語訳)

 

 パウロは「価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされる」(3:24)と語ります。そしてきょうの箇所では、信仰の父アブラハムを例に挙げて、行いではなく信じることを通して義とされることを語ります。

 繰り返し確認しますが、聖書で言われる義というのは、関係における正しさ、正しい関係にあることを表します。では神と共にあることを喜べる正しい関係になるにはどうしたらよいのでしょうか。それは神を信じることによって与えられると聖書は語ります。

 そもそもイスラエルの父祖、信仰の父アブラハムは、行いによって義とされたのではありません。パウロは創世記15:6を引用して語ります。「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた。」
 パウロはこれを神の恩恵なのだと語ります。「働く人に対する報酬は、恩恵としてではなく、当然の支払いとして認められる。しかし、働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである。」
 神との正しい関係が人間の行いよってもたらされるのであれば、それは当然与えられるべき対価です。自分の行いよって得たものですから、誇ることもできるでしょう。
 しかしパウロは「神のみまえでは、できない」と断言します。なぜなら神は、アブラハムが神を信じたことによって、彼を義と認められたからだ、と主張します。神が、アブラハムを行いよって義とされたのではなく、アブラハムが神を信じたことによって義とされたのです。

 わたしたちは、神に対して罪を犯しています。神に対して罪という負債を負っています。それをどのように贖い正しい関係になるかは、神がお決めになることです。負債を負っているわたしたちが「これでいいことにしよう」とは言えず、律法を御心に従って完璧に守り、罪を贖うに十分な愛を神と隣人に注ぐことはできません。
 パウロが引用したアブラハムが神を信じたことによって義とされた出来事は創世記15章にあります。そして神がアブラハムに割礼を命じられたのは、創世記17章にあります(17:10)。アブラハムは割礼を受けたから義とされたのではありません。アブラハムが義とされたことと割礼は関係ありません。神がアブラハムを義とされたのは、行いの対価ではなく、恵みとして信仰を通して与えられたのです。パウロは「働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められる」と言っています。

 これは、アブラハムが神を信じたから、神はアブラハムと正しい関係になろうと言われたのではありません。神は人が罪を犯した時、否、人をお造りになった時から正しい関係であろうとして語りかけ、祝福を注ぎ、人も世界も恵みの御業の中に置いてくださっていました。信じると、神は恵みの神になってくださるのではありません。神が恵みの神、真実な神であってくださるので、わたしたちは神を信じるのです。わたしたちの信仰が先なのではありません。神ご自身がわたしたちの命、わたしたち自身の基、根源なのです。信じたら救われるのではありません。神がわたしたちを愛し、わたしたちの救いとなってくださっているので、わたしたちは信じるのです。

 ここで注意して頂きたいことがあります。ここで引用されている「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」ということを福音主義プロテスタント)の教会では「信仰義認」と呼んでいます。この信仰義認について、時々間違いが生じます。それは、信仰に対しても自分たちで評価するという律法主義に陥ってしまうことです。つまり自分たちの物差しで信仰の評価し比較をしてしまうのです。例えば「あの人は信仰深い人だ」とか、あるいは「わたしの信仰は救いにふさわしい信仰だろうか」などと。こういうのは、信仰を律法に変えてしまい、信仰を行いに変え、自分の業にしてしまうことです。
 義と認めるのは、神なのです。神は、ご自分を信じたことに対して義と認められたのです。どれだけ深く信じているか、どれだけ固く信じているかを問うてはおられません。今、神の言葉を聞いて、ただ神を信じるのです。

 わたしたちは罪を抱えているので、神の言葉を聞いても、自分の考えで曲げてしまうことがあります。だから神の言葉を聞き続けるのです。神の言葉によって新たにされていくのです。

 信仰についてもう少し申し上げます。行いの代わりに信仰で、と考えると間違います。わたしたちの信仰も不完全です。完全な信仰を持っているのは、イエス キリストお一人です。イエスは全き信仰を持って十字架の贖いを成し遂げ、神はそのイエスを死からよみがえらせ、天に引き上げられました。わたしたちの信仰は、行いの代わりにはなりません。完全な信仰だから神は義とされると言われたのではありません。「あなたは行いは不十分で律法はちゃんと守れないけれども、わたしを信じたから義としよう」というのでもありません。わたしたちは、神の約束が真実で、神は罪人を救われる、神がわたしを救ってくださる、神がこの罪深いわたしを愛していてくださる、聖書を通して神が語っておられることを信じるのです。神ご自身を信じるのであって、わたしの信仰に依り頼むのではありません。

 きょうの箇所にあるように「不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められる」のです。
 この言葉は、自分の信仰が不信心であることを示しています。わたしたちは行いも信仰も何も誇ることはできません。ただ神が罪あるわたしたちを愛し救ってくださることを、神の言葉から聞いて、信じて悔い改めるのです。神の許に救いがあり幸いがあることを聞いて、信じて神の許へと悔い改め立ち帰るのです。イエスは言われました。「わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」(ルカ5:32)。

 神はわたしたちが聞くべき神の言葉として、聖書を与えてくださいました。ですから信仰義認についてもまた、創世記からヨハネの黙示録まで神の言葉全体から正しく聞いて、いつも新しく神ご自身を信じていくのです。
 神ご自身に触れていくとき、神は愛であり真実であられる、わたしの救いであってくださる、それを知っていくときに、わたしたちは喜びと平安を持って神を信じていく、神と共に生きる者へと招かれ導かれているのです。

 

ハレルヤ