聖書の言葉を聴きながら

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ローマ人への手紙 3:27〜31

2017年10月29日(日)主日礼拝  
聖書箇所:ローマ人への手紙 3:27〜31(口語訳)

 

 パウロは、人はキリストによってのみ救われることを明らかにしようとしています。ですから、ユダヤ人も異邦人も、神の御前で自分を誇ることはできないし、裁かれる存在であることを明らかにしてきました。
 パウロは語ります。「すると、どこにわたしたちの誇があるのか。全くない。なんの法則によってか。行いの法則によってか。そうではなく、信仰の法則によってである。」
 わたしたちには神の御前で誇れるものは何もありません。それは何によって分かるのでしょうか。律法(神の戒め)をどれだけきちんと守れたかを判断する行いの法則ではありません。

 旧約の規定の中には、様々な献げ物の規定があります。燔祭、酬恩祭、素祭などたくさんの献げ物が定められています。これらは新共同訳の方が分かりやすい訳になっています。新共同訳だと焼き尽くす献げ物、和解の献げ物、穀物の献げ物などと訳されています。これらの献げ物は、神の前に出るには、生活のあらゆる場面で罪を贖わなければならないことを示しています。そして神がアブラハムに対して抱かれた思いは「アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた」(創世記 15:6)であります。旧約の中にあるのも、行いの法則ではなく、信仰の法則なのです。

 ここに出てきた言葉を説明しますと、義というのは正しいという意味です。どういう正しさかというと、関係における正しさです。つまり神とわたしたちとの間の関係における正しさです。
 わたしたちは聖書によって、神を父なる神と呼びます。そしてわたしたちはキリストによって、神の子とされています。ですから神とわたしたちとの関係は、父と子の関係として語られます。神とわたしたちとの関係における正しさ(義)は、父と子の関係になぞらえて語られます。父が子に心を配り、愛を注ぐ、子は父の愛を受けて父を信頼する愛する。こういう関係が神と人との間では正しい、義なる関係だと聖書は告げています。神とわたしたちとの関係は、愛され導かれ、信じ愛することのできる関係なのです。
 そして、この神との正しい関係に入るには、神が与えてくださった戒めをすべて落ち度なく守って入るのではありません。わたしたちが神と共に生きていけるように、神がひとり子を遣わしてまで救いの御業を成し遂げてくださったことを信じる、神にこのわたしのすべてを委ねても大丈夫だと信じ、イエス キリストがこのわたしの救い主である、と信じることを通して正しい関係に入れられるのです。
 このようなことをパウロは義と言い、行いの法則と言い、信仰の法則と言っているのです。

 もう少し言いますと、行いの法則とは、サンタクロースの法則です。「この一年いい子にしてた?いい子にはプレゼントをあげよう。」いい子でいたという行いによって、プレゼントがもらえるというのが行いの法則です。しかし、わたしたちは日々罪を積み重ねています。けれどもそのわたしたちを、神は愛してくださり、わたしたちにはできない罪の贖いを、イエス キリストによって成し遂げてくださいました。わたしたちは既に赦されているのです。だからイエス キリストを信じて「主よ、感謝します」と言って、神の御前に立つことができるのです。信じることを通して、神との愛と信頼に満ちた関係に入れられる、これが信仰の法則です。
 パウロは言います。「わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。」

 パウロがこう確信するのには、彼の回心の出来事が大きく関わっています。使徒行伝 9:1~5「サウロは(回心前パウロはサウロと呼ばれていました)、なおも主の弟子たちに対する脅迫、殺害の息をはずませながら、大祭司のところに行って、ダマスコの諸会堂あての添書を求めた。それは、この道の者(キリスト者)を見つけ次第、男女の別なく縛りあげて、エルサレムにひっぱって来るためであった。ところが、道を急いでダマスコの近くにきたとき、突然、天から光がさして、彼をめぐり照した。彼は地に倒れたが、その時「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。そこで彼は「主よ、あなたは、どなたですか」と尋ねた。すると答があった、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」
 これがパウロの回心の出来事です。キリスト教の迫害者から福音の宣教者へと変わる決定的な出来事です。

 パウロは真面目な信仰者、ユダヤ教徒でした。パウロはピリピ人への手紙 3:4~6でこう書いています。「もとより、肉の頼みなら、わたしにも無くはない。もし、だれかほかの人が肉を頼みとしていると言うなら、わたしはそれをもっと頼みとしている。わたしは八日目に割礼を受けた者、イスラエルの民族に属する者、ベニヤミン族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法の上ではパリサイ人、熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者である。」
 これには続きがあります。「しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。」(ピリピ 3:7~9)
 パウロは、自分が間違っていることに気づきました。キリストに出会ったことにより気づきました。イエスこそ救い主キリストでした。自分の理解も熱心も、行いも間違っていました。自分は「律法の義については落ち度のない」者、しかし神は「キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を」受けるようにとの御心でした。神は救い主として、御子イエス キリストをお遣わしになり、イエス キリストによって救いを成就されたのです。キリストは「わたしたちの罪のための、あがないの供え物」「ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のため」(1ヨハネ 2:2)の贖いの供え物だったのだと知ったのです。

 だからパウロは言います。「神はユダヤ人だけの神であろうか。また、異邦人の神であるのではないか。確かに、異邦人の神でもある。」「まことに、神は唯一であって、割礼のある者を信仰によって義とし、また、無割礼の者をも信仰のゆえに義とされるのである。」
 パウロが属していたパリサイ人の信仰熱心は、「律法の義については落ち度のない」と言うほどのものです。神の戒めをきちんと守って、神に喜ばれる者であろうと願って生きていました。その彼がキリストに出会ったときに、行いの法則によって自分の義を立てようとしていた自分の信仰が間違っていたことに気づいたのです。神はわたしたちの欠けも弱さも愚かさも知って、なお愛してくださり、その救いのためにキリストを遣わしてくださる。わたしたちは神の愛によって救われるのだ。自分の熱心によって救われるのではなく、神の愛により、イエス キリストにより救われる。そして誰もが自分の信仰を誇ることから解放され、共に主を誇りとするという恵みを与えてくださった。パウロは、そのことにキリストと出会って、目を開かれたのです。

 そして最後に確認するようにパウロは言います。「すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである。」
 信仰によって律法を確立するとは、どういうことでしょうか。律法によって自分を誇ろうとしたり、裁かれるのではないかと不安に陥ったりしているうちは、神を喜ぶことができません。信仰によって「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して」くださっている。「それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るため」(ヨハネ 3:16)なのだと神の愛を確信するときに、わたしたちは救われた感謝をもって律法を守っていくことができるのです。神を喜び、神に従うことができるのです。「わたしたちは、今や和解を得させて下さったわたしたちの主イエス・キリストによって、神を喜ぶ」(ローマ 5:11)のです。神を喜びつつ生きることによって、律法を確立するのです。
 神が与えてくださる救いの恵みを、イエス キリストを通して知るとき、戒めも神と共に生きるための恵みであることを知るのです。喜びと感謝をもって、戒めを受け取ることができるのです。神と共に生きる大いなる恵みに招かれている。すべての神の言葉が、わたしたちを神へと導いてくださることを、イエス キリストによって知り、神を喜ぶのです。

 今わたしたちもまた「キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだす」のです。パウロと同じく真の救い主イエス キリストと出会うようにと、神はわたしたちを招き続けていてくださるのです。

 

ハレルヤ