聖書の言葉を聴きながら

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ルカによる福音書 22:28〜30

2017年10月8日(日)主日礼拝  
聖書箇所:ルカによる福音書 22:28〜30(口語訳)

 

 最後の晩餐の席で、弟子たちが「自分たちの中で誰が一番偉い」(22:24)かを言い争っている中でイエスは語られました。
 「いちばん偉い人はいちばん若い者のように、指導する人は仕える者のようになるべきである」(22:26)
 これに続くのがきょうの箇所です。「あなたがたは、わたしの試錬のあいだ、わたしと一緒に最後まで忍んでくれた人たちである。それで、わたしの父が国の支配をわたしにゆだねてくださったように、わたしもそれをあなたがたにゆだね、わたしの国で食卓について飲み食いをさせ、また位に座してイスラエルの十二の部族をさばかせるであろう。」(22:28~30)

 まず弟子たちは、自分たちの中で誰が一番偉いかなどと言い争う必要はないのです。それは自分たちが決めることではありません。賜物を与えるのも、その人を用いるのも、神がなさることです。神のひとり子であられるイエス キリストご自身が、仕える道を歩まれ、十字架を負われました。そのキリストを、神が死から復活させ、天に引き上げられました(エペソ 1:20)。わたしたちの歩むところもまた、わたしたちを造り、キリストを遣わすほどに愛していてくださる神によって定められるものです。
 キリストに従う者にとって大事なのは、キリストに倣って仕えること、そしてきょうの箇所で言われている、試練の間最後まで忍び、キリストと共にあることです。

 ここで試練と訳されている言葉は、別の箇所では誘惑と訳される言葉です。聖書では試練も誘惑も、信仰が試される同じ事柄です。信仰に踏みとどまって試練や誘惑に打ち勝つのか、踏みとどまれずに流されてしまうかということです。わたしたちの生涯の中では、試練や誘惑には勝つこともあれば、負けることもあるでしょう。しかしたとえ負けて流されても、諦めずにイエスへと立ち帰り、イエスと共に歩き出すかどうかが大切なのです。これを聖書では悔い改めると言います。この後、イエスが逮捕されたとき、逃げ出した弟子たちが悔い改めるのを諦めたなら、キリストは伝えられませんでした。しかし復活の主に導かれ、聖霊の力を受けて、イエスへと立ち帰り、イエスに従って歩み出しました。自分の弱さに諦めてしまうのではなく、最後まで忍んで忍耐して悔い改めるのです。諦めずに悔い改めるのです。

 この悔い改めを通してでなくては、わたしたちはイエスと一緒に最後まで忍ぶことはできません。そしてわたしたちが、諦めずに悔い改めるというその道に導かれるのは、イエスがわたしたちを知っていてくださり、知っていてなお招いてくださるからです。
 ヘブル 4:15はイエスを指してこう言っています。「この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。」
 イエスはわたしたちを救うため、試練の中に来てくださいました。わたしたちがどのような試練や誘惑に遭うのか、イエスは知っておられます。そしてその試練や誘惑に、負けてしまうことが度々あることもイエスは知っておられます。ユダの裏切りも、弟子たちが逮捕を恐れて逃げ出すことも、ペテロが三度イエスを知らないということも知っておられました。知っていて弟子とされたのです。わたしたちを知っていてくださる方が、わたしたちの名を呼び、召していてくださる、招いていてくださるのです。だから諦めずに何度でも悔い改めることができるし、悔い改めイエスの許へ立ち帰ることへとわたしたちは導かれているのです。

 諦めずに悔い改めた先に何があるかというと、神の国があるのです。「わたしの父が国の支配をわたしにゆだねてくださったように、わたしもそれをあなたがたにゆだね」(22:29)とイエスは言われます。ここで委ねると訳されている言葉は、契約する、遺言するという意味を持った言葉です。つまり、神の国を相続する、契約に基づいて受け継ぐということです。
 ローマ 8:15~17にはこうあります。「あなたがたは・・子たる身分を授ける霊を受けたのである。・・御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。」
 ここで「キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている」と言われます。イエスに従って歩むとき、試練もあれば、苦難もあります。イエスご自身「自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」(ルカ 9:23)と言われます。しかし、最後まで忍んで、諦めずにイエスへと立ち帰り、イエスと共に歩んでいくとき、栄光をも共にするのです。

 繰り返しになりますが「忍んで」と言うとき、それは決して躓かないということではありません。先ほども言いましたが、この話の直後、弟子たちは逮捕を恐れて逃げ出してしまいます。ユダは裏切りました。ペテロは三度知らないと言います。イエスはそれを知っておられました。知っていて、きょうの御言葉を弟子たちに語られたのです。ですから「忍ぶ」と言うとき、それは躓かないとか罪を犯さないという意味ではありません。最後まで、キリストへと立ち帰り、キリストと共にある。そしてキリスト共に新たに歩み出す。そのことを指して、イエスは最後まで忍んだと弟子たちに言ってくださるのです。
 ですから、罪によってイエスから離れてしまうけれども、御言葉によってもう一度立ち帰る。復活の主の招きによって立ち帰る。聖霊の導きによって立ち帰ってキリストと共に歩んでいくとき、わたしたちは神の相続人、キリストと共同の相続人とされ、神の子として、キリストと神の栄光を共にするのです。

 わたしたちは、キリストによって神の子とされ、共同の相続人とされました。キリストと共同の相続人として、父なる神からキリストが受け継いだ神の国を、キリストと共同の相続人として、キリストから受け継ぐのです。

 そしてわたしたちは、神の国の食卓で一緒に食事をする親しい交わりに入れられるのです。神の子として神の国に入れられ、神の家族の交わりに与るのです。
 さらに、キリストと共に王座について、神の国を治め裁くのです。ここで裁くと訳された言葉(30節)は、裁くことも治めることも含む言葉です。
 治め、裁く務めは、創造の始めから与えられていたものです。「神は自分のかたちに人を創造された。・・神は彼らを祝福して言われた、『生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ』。」(創世記 1:27, 28)
 救いの完成するときには、創造のときの恵み、神が見て「よかった」と言われた恵みが回復され、キリストと共に歩んだ者にその祝福の務めが与えられるのです。
 ここでイスラエルの十二部族と言われているのは、神の国を表しています。神が治め導かれる世界をキリストと共に治め、裁いていく。神の栄光が現れるように、神がよかったと言われた喜びが満ちあふれるように、治め裁いていくのです。

 ですから、わたしたちキリストに従い行く者は、誰が一番偉いかなどと信仰を比べたり、人に信仰を認めてもらうことに心囚われる必要はないのです。キリストがこのわたしを知っておられます。愛していてくださいます。招いていてくださいます。だから、試練や誘惑の絶えない世にあって、最後まで忍んで悔い改めるのです。
 神によって造られたわたしが、その恵み、幸いを覚えることのできるところ、喜ぶことのできるところ、それが、このわたしのために命をさえ差し出してくださるキリストの御前だからです。イエス キリストの前でこそ、神のよかったという言葉を聞くことができるのです。「あなたがわたしの遣わした救い主を信じてくれてよかった。わたしが造ったあなたが、罪によって失われなくてよかった。あなたがわたしと共に生きようとそう思ってくれてよかった。」

 イエス キリストの許にこそ、神の限りないよかったという言葉がわたしたち一人ひとりに与えられるのです。だから最後まで耐え忍んで悔い改めるのです。イエス キリストの許にわたしたちのいるべき場所がある。幸いがある。救いがある。喜びがある。だから何度離れても、主の御声を聞いて、何度でもキリストへと立ち帰り、神の招き、神の召しに従って生きるのです。そして、キリストの共同の相続人として、神の国を受け継ぎ、神の国の祝福・喜びに与るのです。
 この未来を仰ぎ見つつ、わたしたちは今キリストに従い、救いの道を歩んでいるのです。

 

ハレルヤ