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ローマ人への手紙 3:21〜24

2017年10月1日(日)主日礼拝  
聖書箇所:ローマ人への手紙 3:21〜24(口語訳)

 

 パウロは、キリストによる以外に救いはないことを明らかにしようとしています。パウロは語ります。
 「しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。」
 義という言葉は「正しい関係」を表します。神の義は「神と正しい関係にあること」または「神と正しい関係にあるもの」を表します。この神の義は、第一にイエス キリストご自身です。
 イエス キリストは、神と一つであられます。神の御心を実現されるお方です。神が、罪なきひとり子を救い主とし、罪を贖わせ、罪人を救おうとされるとき、人となって世に来てくださるお方です。罪人の罪を負って、十字架にお掛かりになるときも「みこころが成るように」(ルカ 22:42)と祈り、自分に罪を負わせている者たちのために「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ 23:34)と祈るお方です。
 しかし「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなって」(23節)います。神の御心とは違う思いを抱くようになる罪のために、神の栄光を受けられなくなってしまいました。神の栄光とは、神の臨在の証しです。神が共にいてくださることの証しです。神が共にいてくださること、今共にあって御業をなしてくださっていることが罪により分からなくなってしまいました。罪に流されているとき、わたしたちは「神が共にいてくださる。わたしを導いていてくださる」とは感じられなくなるのです。わたしたちは罪のために、神と一つになることができません。ただイエス キリストだけが、神と一つであられます。

 神はこのイエス キリストの義を、イエス キリストが持つ神との正しい関係を、わたしたちに与えようとしてくださっています。それは旧約の時代から示されていました。創世記 22章の「主の山に備えあり」の箇所でイサクの命を救うために神が備えてくださった羊はイエス キリストを指し示しています。出エジプトで神の裁きが過ぎ越すために流された小羊の血はイエス キリストの十字架を指し示しています(出エジプト 12章)。パウロが言う「律法と預言者とによって」(21節)という表現は「旧約によって」という意味です。旧約によって指し示されていたものが、ついにイエス キリストによって到来し実現したのです。

 そして、わたしたちは「価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされる」(24節)のです。わたしたちは自分の救いのための代価を支払うことができません。罪を抱えているわたしたちは、日々罪を重ね、神に対する負債を増やすことしかできません。イエス キリストのように神と一つとなって、御心をなすことはできません。
 イエス キリストが世に来てくださったのも、ただ神の恵みによるものです。そしてイエス キリストが罪なき命を献げてくださったので、わたしたちは罪から贖われ、救い出されました。わたしたちは救いのために何も支払っていませんが、イエス キリストがその命を献げてくださいました。
 そして、神はわたしたちが神と正しい関係を築くために、イエス キリストを救い主として信じるようにお求めになりました。イエス キリストが自分の救い主であると信じることによって、イエス キリストを受け入れ、イエス キリストの義に与っていくのです。わたしたちは救い主イエス キリストを信じることにより、義とされるのです。わたしたちの神に対する正しいあり方として、神は信じるという関係を与えてくださったのです。

 ここで一つ注意しなければならないのは、わたしたちの信仰に救いに至る価値があるのではありません。わたしたちの信仰は弱く小さなものです。神を完全に信じ抜くような信仰ではありません。信じることにおいても、イエスがわたしたちに代わって十字架に至るまで神を信じ抜いてくださったのです。行いも信仰も、イエス キリストがわたしたちに代わって、わたしたちのために、全きものを神に献げてくださったのです。
 わたしたちが信じるのは、神がわたしの救いのすべてを成し遂げてくださったということ。わたしが救われているのは、神の恵みによるもの。神が御子を救い主として遣わしてくださり、キリストが救いの業を成し遂げてくださった。そして聖霊がキリストの救いにこのわたしを与らせてくださる。わたしの救いのすべては神によるものである、ということを理解し信じるのです。
 ですから、わたしたちの信仰の度合いによって救われるのではありません。わたしが熱心に疑いなく神を信じたから救われるのではありません。神がこのわたしを愛してくださり救ってくださったから、信じるのです。こういう条件を満たしたらあなたを救ってあげよう、と神は言っておられるのではありません。神を知り、神の御業を知っていったときに、わたしたちは「信じて大丈夫、わたしを委ねて大丈夫」だと導かれて信じるのです。
 つまり、救いは信じるということと引き換えに取り引きとして与えられるものではありません。神がわたしたちを覚え、顧み、そして救いの御業をなしてくださったのです。だからわたしたちは信じる恵みへと導かれるのです。罪の世にあって、信じられなくなっているわたしたちに、神は惜しみなくその愛を注ぎ、恵みを注いでくださるので、わたしたちは信じる者に変えられていくのです。

 それが「イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない」(22節)と言われていることなのです。すべて信じる人に差別なく与えられる神の義が、イエス キリストによってもたらされたのです。そして、わたしたちは信じられない罪の世にあって、神の愛と恵みを信じて生きる者とされたのです。

 このように、「イエス キリストを信じるすべての人に差別なく救いが与えられる。わたしたちはただイエスキリストによって救われる」と宣べ伝えるとき、「キリストを信じることによってだけ救われるのであれば、わたしは何もしなくていい、何をしてても大丈夫だ」と考える不信仰な不道徳な人を育てることになるのではないか、という批判を歴史の中で受けてきました。
 では、わたしたちの善き業はどういう意味を持つのでしょうか。それは感謝の献げ物です。行いも信仰も不完全なわたしをキリストによって救ってくださったことに対する感謝なのです。自分を救うための善き業ではありません。神の救いの恵みを喜ぶからこそ献げる善き業。それがわたしたちのなす善き業なのです。
 ですから、善き業がこのレベルに達しないとあなたは救われません、というものではありません。救われている、だから安心して、感謝して、喜んで、主が示してくださる命の道を歩もうとしてなす業です。それは人の目から見ると人によって違いがあります。けれどもイエスは与えられた賜物に従って「よい忠実な僕よ、よくやった」(マタイ 25:21)と神が喜ばれることを教えてくださいました。ですから、わたしたちの善き業は、何かの基準を超えるためのものではありません。人と比較して、自信を持ったり、落ち込んだりするようなものではありません。神が与えてくださる恵みを受けて、喜んで感謝して主と共に歩むことを願ってなされるのが、キリスト者の善き業なのです。

 イエス キリストが、わたしたちのために、わたしたちに代わって、行いも信仰もすべて罪のない完全なものを献げてくださいました。わたしたちを丸ごと救ってくださったのです。そして、イエス キリストは「きのうも今日も、また永遠に変わることのない」(ヘブル 13:8)お方、常に変わらずにわたしたちの救い主であってくださるお方です。だから、わたしたちは自分自身の救いを安心して喜んで信じることができるのです。このように信じることができるのは、ただイエス キリストの御前だけです。そのようなかけがえのない救い主を、神はわたしたちに遣わしてくださいました。イエス キリストによって救われるように、イエス キリストを信じる信仰によって、神との正しい関係に入れられ、神を喜び信じて生きることができるようにと、神は御業をなしてくださいました。

 

ハレルヤ