聖書の言葉を聴きながら

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ローマ人への手紙 3:5〜8

2017年8月20日(日)主日礼拝  
聖書箇所:ローマ人への手紙 3:5〜8(口語訳)

 

 パウロは、すべての人は罪を抱えていて、異邦人もユダヤ人も、神の前に誇ることはできないことを明らかにします。

 すると「わたしたちの不義が、神の義を明らかにする」などと言う人が出てきました。
 義というのは、正しさを表す言葉です。この正しさは、関係の正しさを表す言葉です。親と子の関係が正しい。日本と隣国との関係が正しい。そういう関係の正しさを表す言葉です。
 では「神の義」「神の正しさ」とは、誰との間の関係の正しさでしょうか。それは、神とわたしたち罪人との間の正しさです。神とわたしたちとの正しい関係は、神と神の子、神と神の民、神と神の僕という関係です。神はわたしたちと正しい関係を築くために、救いの御業をなされ、ついには御子イエス キリストを救い主としてお遣わしになられました。神は、救いの御業の中で、「神の義」「神の正しさ」を現されました。

 すると「わたしたちの不義が、神の義を明らかにする」などと言う人が出てきたのです。「神の真実が、わたしの偽りによりいっそう明らかにされて、神の栄光となるなら」わたしが罪人のままでいること、罪を犯すことが、神の栄光のためになるのではないか、などと言う人が出てきたのです。「善をきたらせるために、わたしたちは悪をしようではないか」などと揶揄する人が出てきたのです。
 神が救いの御業においてご自分の義、正しさを現されるなら「怒りを下す神は、不義」ではないのか。「もし神の真実が、わたしの偽りによりいっそう明らかにされて、神の栄光となるなら、どうして、わたしはなおも罪人としてさばかれる」だろうか。キリスト教の教えだとそういうことでしょ。罪人のままでいいんでしょ。そういうことだよね、ということが言われ出していたのです。
 パウロは「断じてそうではない」とこの考え方を否定します。

 この考え方の決定的な間違いは、神の御心を無視して考えていることです。神はわたしたちが罪の中に留まるために救いの御業をなされたのではありません。この考え方は、わたしたちを罪から救い出して、共に生きようという神の御心を踏みにじるものです。
 神はわたしたちを罪から救い出し、ご自分の民、神の子へとわたしたちを新たにされます。「わたしたちはみな・・栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく」(2コリント 3:18)のです。神はわたしたちをキリストと同じ姿にまで新たにし変えていかれるのです。

 神はキリストにおいて救いを成し遂げてくださいました。わたしたちは自分の善き業によってではなく、キリストによって救われます。しかし神から求められていることがあります。悔い改めること、キリストを信じること、神に従い新しく生き始めることです。神が与えてくださる救いは、神と共に生きることです。悔い改めずして神と共に生きることはできません。キリストを信じ、キリストの救いに与らずして神と共に生きることはできません。キリストをお与えくださるほどの神の愛を信じて、神に導かれて新しく生き始めるのでなければ、神と共に生きることはできません。

 わたしたちは罪人のままで救われます。しかし、罪人のままであり続けることはできません。イエスも姦淫の女に対して「今後はもう罪を犯さないように」(ヨハネ 8:11)と言われました。神は、わたしたちをキリストと同じ姿になるまで、新しく変えていかれるのです。

 わたしたちは生きています。生きているものは絶えず変わります。成長し、老いていき、一瞬たりとも立ち止まらずに変化していきます。それが止まるとき、わたしたちはこの世で死を迎えます。命は絶えず新しく変化し続けます。そして神が救いによって与えてくださるのが、永遠の命です。救いの中でも命は絶えず新しく変化し続けます。キリストと同じ姿になるまで変わり続けるのです。

 神はその変化のために、試練を与え、訓練を与え、裁きを与えられます。それは聖書を見れば明らかです。アブラハムも、モーセも、ダビデも、預言者たちも、神から試練、訓練、裁きを受けて、神の務めを担う器として変えられ整えられていきました。神の民に加えられたわたしたちもまた、神の試練、訓練、裁きを受けて導かれるのです。
 先ほど赦しの言葉で読まれたホセア 6:1ではこう言われています。「さあ、わたしたちは主に帰ろう。主はわたしたちをかき裂かれたが、またいやし、わたしたちを打たれたが、また包んでくださるからだ。」「主に帰ろう」というのは「悔い改めて主に立ち帰ろう」ということです。主に背を向けて滅びへと向かって行くので「主はわたしたちをかき裂かれ」たのです。しかし「またいやし」てくださいます。主は「わたしたちを打たれた」けれど「また包んで」くださいます。神は滅ぼすためにかき裂かれ打たれるのではなく、わたしたちを神の民、神の僕として新しく生きるために、新しく生まれ変わらせるために、その御業をなされるのです。

 わたしたちの教会は信仰告白において、「主の委託により・・信徒を訓練し」と告白しています。どう訓練するのか。それは、神の御心を知り、神の導きに従い、神と共に生きるための訓練をするのです。礼拝すること、御言葉を聞くこと、祈ること、讃美すること、献げること、そして様々な教会の務めを通して、神に従い生きる訓練をするのです。

 神はひとり子の命までかけた救いを侮ることをお許しにはなりません。パウロが「彼らが罰せられるのは当然」と言っているとおりです。神はご自分に立ち帰り、救いをきちんと受け取ることができるように裁き正されます。わたしたちは神の御業を神の御心から理解しなければなりません。
 わたしたちは時折、神が何故にこう語られたのか、何故にこの戒めを与えられたのか、何故この御業をなされたのか、その大本である神の御心を離れて、自分の論理で、聖書を理解してしまうことがあります。それがきょうの箇所で言われていることです。「わたしたちの不義が、神の義を明らかにする」「神の真実が、わたしの偽りによりいっそう明らかにされて、神の栄光となる」イエス キリストの救いによって罪が赦されるのであれば、わたしたちが不義だからこそキリストの救いが輝くのでしょう。というようなことを神の御心を考えずに、自分の論理に神の御業をゆがめ押し込めてしまうことがあります。

 自分に都合のいい御言葉だけを選んで、自分に都合のいい神を作り上げてはいけません。聖書の言葉を用いていてもそれは偶像を作ることに他なりません。荒れ野の誘惑で悪魔は聖書の言葉を使ってイエスを誘惑しました。イエスを信じ従っていたペテロは、十字架を理解できず拒否しようとして「サタンよ、引きさがれ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」(マルコ 8:33)と言われました。

 わたしたちの教会は、神の御心を正しく知るために、聖書に沿って聞こうとする講解説教を重んじてきました。聖書の要約である教理の学びを重んじてきました。家庭礼拝暦を出版して、聖書全体を読んでいくように配慮してきました。牧師たちは神学の学びを大切にしてきました。そして牧師が自分好みの教会を建てるのではなく、信仰告白と教会の憲法・規則によって、キリストが主である教会を建てるように心がけてきました。わたしたちの教会の営みの一つひとつに真実なキリストの教会を建てたいという願いが込められています。その真実なキリストの教会を建てるために、説教がどうあるのか、礼拝がどうあるのか、信徒の訓練がどうあるのか、牧師は何を学んでいくのか、そういう一つひとつのことを大切にしてきました。どれも自分中心の信仰、自己流の信仰ではなく、神に立ち帰り、神に従い生きる信仰を育むためになされてきました。

 救いはわたしたちにとって喜びです。喜びでありうれしいからこそ、自分好みの救いを作りがちなのです。パウロは、神を離れて自分好みの救い、自分勝手な理解に陥らないようにと、きょうのこの箇所を書いたのです。
 どうか皆さんも、自分勝手な理解、自分好みの信仰に陥ることなく、神へと立ち帰り、神に従い救いの道を歩まれますように。

ハレルヤ