聖書の言葉を聴きながら

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ローマ人への手紙 2:25〜29

2017年7月23日(日)主日礼拝
聖書箇所:ローマ人への手紙 2:25〜29(口語訳)

 

 パウロは、ユダヤ人のしるしである割礼について語ります。
 割礼というのは、男性の性器の皮を切り取る儀式です。これはユダヤ教でだけ行われる儀式ではなく、エチオピアあたりが発祥だとも言われる古い儀式で、多くの民族の間で行われていたものです。
 この割礼については、創世記17章に出てきます。「神はまたアブラハムに言われた、「あなたと後の子孫とは共に代々わたしの契約を守らなければならない。あなたがたのうち男子はみな割礼をうけなければならない。これはわたしとあなたがた及び後の子孫との間のわたしの契約であって、あなたがたの守るべきものである。」(創世記 17:9, 10)
 神は割礼をご自身の民のしるしとされました。割礼は多くの民族の間で行われていましたが、神は割礼に特別の意味を持たせられました。それは、割礼が神との契約のしるしであるということです。「あなたがたは前の皮に割礼を受けなければならない。それがわたしとあなたがたとの間の契約のしるしとなるであろう。」(創世記 17:11)これは、自分自身に刻まれた消えることのないしるしです。罪を抱えた肉を切り捨てて、神と共に生きることを表すしるしです。普段は服の中に隠されており、他の人からは見えませんが、本人には自分が割礼を受けており、神と契約したイスラエルの一員であることを生涯示し続けるしるしなのです。
 この割礼は、自分が神の民であるという誇りでもありました。自分は神の民イスラエルの一員、他の民とは違う、という誇りがありました。

 パウロからすると、自分はユダヤ人、神の民であるという誇りは、信仰の妨げでしかありませんでした。パウロはピリピ人への手紙で自らこう言っています。「肉の頼みなら、わたしにも無くはない。もし、だれかほかの人が肉を頼みとしていると言うなら、わたしはそれをもっと頼みとしている。わたしは八日目に割礼を受けた者、イスラエルの民族に属する者、ベニヤミン族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法の上ではパリサイ人、熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者である。しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。」(ピリピ 3:4~9)
 この中で、きょうとの関わりで最も大事なのは、次の部分です。「わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている」
 パウロは、ユダヤ人が誇りとするものの一切を損だと思っています。それは「キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえ」であり、実際パウロは「キリストのゆえに」「すべてを失」いました。「すべてを失」いましたが、「それらのものを、ふん土のように思っている」のです。だからパウロは、自分と同じユダヤキリスト者が、キリスト以外のものを誇りとしていることに対して「それは違う」と思っているのです。自分がユダヤ人であるとか、割礼を受けているとか、旧約の御言葉に通じているとか、そんなものに頼っていてはダメだ、と思っているのです。

 救いの本質は、神と共に生きるところにあります。自分を中心にし、自分に執着する罪から贖われ、神を主とする信仰へと新たにされなければなりません。そのためにキリストは世に来られ、命を献げられました。しるしは、キリストを指し示すものであって、しるしが救うのではありません。割礼が救うのでも、洗礼が救うのでもありません。それらはイエス キリストを指し示すのであって、わたしたちはイエス キリストによってのみ救われるのです。

 割礼は、罪を抱えた肉を捨てて、新たにされて、神と共に生きることを示します。もし、割礼を受けていない人が、神の言葉に従って生きていれば、その人こそ神の民、隠れたユダヤ人なのです。割礼を誇る者は、神の言葉に従って生きる人によって、罪が明らかにされるでしょう。イエスもこう言われました。「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。」(マタイ 7:21)

 パウロは言います。「霊による心の割礼こそ割礼であって、そのほまれは人からではなく、神から来るのである。」
 わたしたちの救いも誉れも、神から来ます。そして神が、主の日ごとにわたしたちを礼拝へと召し集めてくださるのは、神ご自身と出会い神を知るためです。わたしたちは罪によって、神を忘れてしまいます。神と結び合わせるためのしるしさえも、自分を誇るものにしてしまいます。愛を語り、愛を行っているようであっても、自分が愛を行っている、そう自分で満足し、自分を誇るなら、それは神と共に生きる愛ではありません。
 神を知るように、神との交わりに生きるように、神は主の日ごとにわたしたちを召し集め、そして御言葉を語り続けてくださいます。わたしたちは、イエス キリストに導かれて神へと思いを向けていかなくてはなりません。そして、神と共に生きるのです。教会にいるその時だけでなく、神が命を与え、わたしたちに与えてくださるそのすべての時を、神と共に生きるのです。
 その時わたしたちは、パウロの思いが、神と共に生きていく中で少しずつ示され分かるようになるでしょう。パウロの書いたピリピ人への手紙を紹介しましたが、まだわたし自身、自分が今持っているものをすべて糞土のように思っているわけではありません。理屈では、頭では分かっていても、これはまだ手放せない、そういうものがあります。けれど、そういうものをすべて手放すようにと導かれる時があります。それが「死」であります。
 一切のものを手放して、親しく生きていた誰からも離れて、本当に神にすべてを委ねて、神に導かれていくその時を、神はわたしたちの生涯の最後に、用意をしておられます。その時に驚き慌てふためくのではなく「わたしがあなたを造った、わたしがあなたを愛している、わたしがあなたを救った」そう言われる神ご自身と出会って、「あぁ主よあなたはこのわたしを捉え語り続けてくださいました。今こそあなたにわたしのすべてをお委ねします」と言って神と共に歩んでいくその時を、神はわたしたちに備えていてくださいます。

 先ほど紹介したマタイによる福音書にあるイエスの言葉は、先日祈り会で家庭礼拝暦(日本キリスト教会出版局発行)で出てきた言葉です。短い勧めの中で、愛ということが語られていました。そして隣人愛という言葉は、キリスト教会の信仰をしるし付ける言葉です。けれども、それが自分の誇りになっていったとき、自分がもはや仕えることも愛することもできない、寝たきりで自分は世話を受けるばかりで、家族に迷惑をかけている申し訳ない、そういう風に思ってしまうようになる時、自分の愛を支えとした人は、その時が苦しくて苦しくてたまらなくなります。もし御心に適う業をすることができたなら、自分を誇るのではなく、そのようにできた賜物と信仰を与えてくださった主に感謝するのであって、わたしたちの一切の望みは、神ご自身にこそあるのです。

 神を誇りとし、神の御心と御業に望みを置く人は幸いです。その人は、わたしたち一人ひとりを愛して止まない、今も生きて働かれる、活ける真の神と出会い、神と共に生きるようになるでしょう。


ハレルヤ