聖書の言葉を聴きながら

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ローマ人への手紙 2:17〜24

2017年7月9日(日)主日礼拝
聖書箇所:ローマ人への手紙 2:17〜24(口語訳)

 

 きょうの箇所では、パウロユダヤキリスト者に向かって語ります。ユダヤキリスト者とは、文字通りユダヤ人のキリスト者のことです。ユダヤキリスト者には、きのうきょう聖書の神を信じた連中とは違う、という自負がありました。パウロの言葉を借りると「自らユダヤ人と称し、律法に安んじ、神を誇とし、御旨を知り、律法に教えられて、なすべきことをわきまえており」ということです。
 「自分はユダヤ人である。ユダヤ人ではない、他の人たちとは違う」という自負がありました。
 「律法に安んじ」とは、イエス キリストしか知らない人と違って、自分たちは律法を知っている。神の教えである律法を大切にし、神に従って生きてきた、という誇りを持っている、ということです。
 「神を誇とし」とは、自分たちは神の選びの民であって、他の民よりも神と特別な関係にあるという思いです。神は「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と呼ばれます。自分たちは、そのアブラハム、イサク、ヤコブの子孫なのだ、という誇りです。
 三番目の「御旨を知り」とは、聖書(旧約)の御言葉に親しんできた自分たちは、神がどんな考えをお持ちなのかよく知っている、という思いです。
 そして四番目の「律法に教えられて、なすべきことをわきまえており」とは、律法によって神の御心を知っており、神の御心に適う生き方を知っている、ということです。
 そしてこの誇りが「知識と真理とが律法の中に形をとっているとして、自ら盲人の手引き、やみにおる者の光、愚かな者の導き手、幼な子の教師をもって任じている」ようになるのです。つまり、ユダヤキリスト者は教える人で、その他のキリスト者は自分たちに教えられる人だということです。

 しかしパウロから見ると、ユダヤキリスト者は「なぜ、人を教えて自分を教えないのか。盗むなと人に説いて、自らは盗むのか。姦淫するなと言って、自らは姦淫するのか。偶像を忌みきらいながら、自らは宮の物をかすめるのか。律法を誇としながら、自らは律法に違反して、神を侮っているのか」ということになるのです。
 これは大きく2つのことを言っています。一つは聖書の神に対する姿勢であり、もう一つはローマの神々に対する姿勢です。
 「盗むなと人に説いて、自らは盗むのか」というのは、十分の一の献げ物のことです。マラキ書 3章では十分の一を献げていないことを盗んでいると指摘されています。マルコによる福音書 7章では、両親に与えるべきものをコルバン、つまり供え物ですと言えば与えなくてよいとしている、と指摘されている箇所があります。神の名を利用して盗んでいるのです。このように自分たちはほどほどに、あるいは都合よくしか守らないものを、人にはこうあるべきだと語っているわけです。
 「姦淫するなと言って、自らは姦淫するのか。偶像を忌みきらいながら、自らは宮の物をかすめるのか」ここで言う姦淫は偶像礼拝のことです。旧約では偶像礼拝を姦淫として指摘しています。宮の物をかすめるというのは、ローマの神々の神殿から献げ物を盗むことです。神ならぬ偶像に供え物など無駄なのだからと言って、盗むのです。しかしパウロは、偶像の供え物を盗み、それによって生活していくことは偶像を頼り支えられて生きること、すなわち偶像礼拝、姦淫に他ならない、と言うわけです。
 そして最後に、ユダヤキリスト者よ、あなたたちは「律法を誇としながら、自らは律法に違反して、神を侮っているのか」と糾弾するのです。

 なぜパウロユダヤキリスト者に対して、このことを厳しく指摘しているのでしょうかか。
 神の民の第一の務めは、神を証しすることです。神を信じて生きることを通して、神を証しすることです。神を信じて生きることを通して、神を証しすることです。しかし、ユダヤキリスト者の律法に対する姿勢は、神の言葉はきちんと守らなくてもいいもの、いい加減でいいもの、キリスト者は神に依り頼みつつも、ローマの神殿からかすめ取ったもので生活する、ローマの神々に支えられて生きている、ということを証ししてしまっているではないか。本来神の民に託された神を証しするという務めをないがしろにしている。そうしていながら、自分たちはユダヤ人、他のキリスト者と違って旧約の神の言葉をよく知っている、旧約の民、神の民イスラエルとしての伝統があるのだと言って誇っている。それは違う、ということをパウロははっきり告げようとしています。
 だからパウロは、ユダヤキリスト者たちがよく知るイザヤ 52:5を引用して「神の御名は、あなたがたのゆえに、異邦人の間で汚されている」と言うのです。

 パウロユダヤキリスト者たちに対して指摘していることは、彼らの信仰が神を証ししていない、ということです。それは当然そのようになります。なぜなら、彼らは、神を誇りとし神を証しするのではなく、自分たちを誇りとし自分たちを証ししようとしているからです。ユダヤ人たちは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神を知っている自分を誇っているのです。モーセを召し、モーセを通して与えられた律法を知っている自分を誇っているのです。自分たちは神の選びの民であり、律法も知らない目の見えない者の手引き、闇にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師であると自分を誇っているのです。
 自分を誇ろうとしているのですから、律法を正しく守って、神を証しすることは、第二第三のことになってしまうのです。パウロは自分の手紙(1コリント 1:31)で、エレミヤ書(9:23, 24)を引用して「誇る者は主を誇れ」と述べています。

 自分はまじめに信仰に生きている。「自分に与えられた賜物はこれだ」と思って、神に仕えている。その自分が中心になって、自分の信仰や行為に思いが囚われていくと、神の名を語っていても、信仰者のように毎日を生活していても、神を証しするのではなく、自らを誇る信仰に変わっていってしまいます。
 わたしたちの信仰の先輩が起草したウェストミンスター小教理問答は「人の主な目的は、神の栄光を表し、永遠に神を喜ぶこと」(問1)だと言っています。神の栄光は、わたしたちの造り主・救い主として、わたしたちを愛し抜いてくださるところに現れます。神がわたしたちの造り主であり、救い主であることを証ししていく。その恵みをわたしは受けて生きている。神によって、今わたしは救いの中にある。そのように神にあって生きている自分を覚え、自分を造り、愛し、救ってくださる神を永遠に喜ぶ。まさにそれこそが、人の主な目的なのです。神から切り離されて自分があるのではありません。自分がどれほどのことをなしたか、自分がどれほど仕えているか、そういうことで自分が立っているのではありません。神がわたしを愛してくださるが故に、神が共に生きようとこのわたしに語りかけてくださるが故に、わたしは今、救いの中に入れられているのです。そのわたしの主である神を信じて生きる、このことを通してわたしたちは神を証しします。ですから、わたしたちが誇るのは、神を信じ信仰を持って善意で生きている自分ではありません。神ご自身を誇るのです。

 信仰を持って生きているように見えても、神以外のものが誇りであったり、神以外のものを証ししているとき、それは神と共に生きていないし、そこに救いは現れません。
 だからこそパウロは、神によって救われ、神と共に生きる信仰、神を誇りとし、神を証しする信仰をはっきりと伝えようとして、この手紙を書いているのです。

 そしてきょう、このことを皆さんが聞いたということは、神が皆さんの信仰を整え、神と共に歩み、救いに入る信仰、神の恵みを受け、神を誇りとする信仰へと導こうとしておられるのです。
 造り主であり救い主である神と出会い、神を知る。その真の主なる神を喜び、神を誇りとして生きる。神はその恵みを伝えるために、ご自身の民を選び出し、代々に渡って、神と共に生きる信仰を、伝えてこられました。そしてそれは、今わたしたちにも伝えられ、わたしたちもその救いの中に入れられています。
 けれど、わたしたちの抱えている罪によって、イエス キリストを救い主として信じている、しかしあとは自分の善意や良識で生きるというような信仰に傾きがちなのです。
 ですから、わたしたちの信仰は、世の終わりまで神の言葉を聞きつつ、神の言葉によって、新たにされ整えられて導かれていかなくてはなりません。わたしたちの教会の信仰告白が、信徒を訓練し、と言っているのはこのことなのです。わたしたちの教会は、神が召された信徒一人ひとりを神の言葉によって訓練すると、告白しているのです。

 神の思いは、皆さん一人ひとりに向けられています。皆さんが神を知り、神を喜ぶように、神にあって望みを抱き、神を誇りとして生きるようにと、神はきょうもお語りくださったのです。

ハレルヤ