聖書の言葉を聴きながら

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ローマ人への手紙 2:12〜16

2017年5月28日(日)主日礼拝
聖書箇所:ローマ人への手紙 2:12〜16(口語訳)

 

 パウロは、神を侮ることなく、神へと立ち帰るために、神を正しく畏れることを教えようとしています。「畏れ(恐れ)」は人の生き方を定めるものの一つです。わたしたちの国でも、昔から「罰が当たる」と言い、「地獄に落ちる」と言って生き方を正そうとしてきました。
 しかし近年、わたしたちの社会から畏れ(恐れ)が薄らいできています。信仰が軽んじられ、神よりも富を敬う社会になってきてるからではないかと、感じています。この畏れ(恐れ)が薄らぐと、人間の都合、欲望に歯止めがかからなくなってきます。そうすると、次第次第に個々人の都合、欲望に歯止めがかからなくなり、共同体が徐々に壊れてきます。そして畏れ(恐れ)が社会から薄らいできている今、わたしたちの社会も共に生きるのが難しくなってきているように思います。

 さてパウロは、6節では「神は、おのおのに、そのわざにしたがって報いられる」と語り、11節では「神には、かたより見ることがない」と言っています。つまり、すべての人に神の報いがあることを告げています。
 そして12節では「律法なしに罪を犯した者は、また律法なしに滅び、律法のもとで罪を犯した者は、律法によってさばかれる」と語ります。なぜなら、すべての人はどう生きるべきかを知っているからだとパウロは言います。
 13節以下では、律法を知っている者は律法によって裁かれる。律法を知らない異邦人は、良心によって裁かれると言っています。繰り返しますが、神に裁かれない者は一人もいないということです。

 人は、共に生きる存在です。共に生きるときに、人は戒めを必要とします。それは、罪によって一人ひとりの善悪が違うからです。二人以上の人が生きる際には、約束事、つまり戒めが必要です。どんな集団であっても、そこには集団を維持するためのルールが存在します。その事実が、人が共に生きる存在であり、共に生きるためのルール、戒めを必要としていることを証ししています。古今東西、仲間であろうと誰であろうと殺してもかまわない、盗み奪ってもかまわない、偽証してもかまわないなどという集団はないのです。

 ですから、人が生きている、家族であろうと、仲間であろうと、社会であろうと、共に生きていることによって、「律法の要求がその心にしるされて」おり、「良心も共にあかしをして」いるのです。
 皆さんの家庭では、どんな約束事があるでしょうか。物を置く場所、子どもの帰宅する時間、いろいろあるのではないでしょうか。そして、その根底には一緒に生活していくために大切にしていることがあると思います。
 人は誰であれ、どんな集団であれ、共に生きようとするときに必ずルールが、戒めが必要であることを皆知っています。そして、集団を維持するために、どういうルールが必要なのか、それは多少民族や時代や社会状況によって違ったとしても、共に生きるということを守り支えるためのものであるということは、共通しています。
 パウロが今述べているのは、聖書の神を信じている者も、そうでない者も、その戒めを持っていて、神は、それに従ってその人に報いられ裁かれるのだという事実を伝えています。それは、神に対する正しい畏れを抱いて、神に立ち帰ることを促すためです。

 人がユダヤ人として生まれるか、異邦人として生まれるかは、神の決定です。しかし、すべての人は神にかたどって創られており、罪によって汚されてはいても、神にかたどられた神の似姿であることには違いありません。
 ですから、律法を知る者は律法によって裁かれます。「律法を聞く者が、神の前に義なるものではなく、律法を行う者が、義とされる」からです。
 そして律法を持たない異邦人は、律法の要求が記された一人ひとりの良心によって、また神の似姿である自分自身によって神に裁かれるのです。

 ただし、罪人の中に神のかたちがあるかどうかについては、神学上の議論があります。罪によって神のかたちは完全に破壊されており、罪人の中に神のかたちは残っていない、という考えの人もいます。
 しかしわたしはその考えには反対です。信仰がなくてもすべての人は、愛することを求め、愛されることを求めて生きてきました。それは、神ご自身に創造され、愛である神にかたどって創られたからです。そしてだからこそ、すべての人には共に生きるための「律法の要求がその心にしるされて」おり「良心も共にあかし」するのです。

 どんな集団であっても、共に生きることを求めるときに、そこで必ず共通のルール、戒めを作って、共に歩めるように努力するのです。律法を持たない異邦人であっても、罪によって一人ひとりの善悪が違っていても、共同のルール、戒めを定め、共に生きようとするのです。
 それは神のかたちに創られているからです。聖書は、神は愛であると言います。その愛である神にかたどってすべての人は創られているから、共に生きたい、愛したい、そして自分もまた必要とされ、愛されたい、と願うのです。キリスト者だけが愛するのではないことを、わたしたちはよく知っています。
 すべての人は、神によって創られ、神にかたどって創られています。そして、すべての人は罪に汚されていても神のかたちがあるので、共に生きようとします。愛を求めて生きているのです。
 だからパウロは、ユダヤ人でなくとも、旧約の戒めを知らなくても、神に与えられた神のかたち、心に記された神の律法があって、それに基づいて裁かれる。だから神に裁かれない人など一人もいない、ということを訴えているのです。

 共に生きる共同体を形成するために、どの時代、どの民族の共同体も努力します。そのために存在するものの一つが裁判です。15節の後半「そのことを彼らの良心も共にあかしをして、その判断が互にあるいは訴え、あるいは弁明し合う」とあるのは、裁判のような議論・協議を示しています。異邦人も裁判を行い、自分たちの心に律法の要求が記されていることを、彼らの良心と共に証ししている、ということです。この裁判、あるいは話し合い議論することも、古今東西あらゆる集団に存在するものです。

 そしてこのことはパウロ自身の信仰の核心、パウロが抱いている福音によれば、「神がキリスト・イエスによって人々の隠れた事がらをさばかれるその日に、明らかにされる」のです。
 パウロは、これをイエス キリストにあって信じています。元々パウロはイエスを信じていませんでした。教会の迫害者でした。しかし彼は復活したイエスに出会いました。パウロが探し求めたのではなく、信じてもいなかったのに、イエスの方からパウロに出会ってくださった。この復活のイエスとの出会いにおいて、パウロは「神がキリスト・イエスによって人々の隠れた事がらをさばかれるその日に、明らかにされる」ことを確信しているのです。
 わたしたちが、このまだ経験していない将来のことを信じるのも、イエス キリストのゆえです。特にその十字架と復活において、神の愛と真実が明らかにされた。まことにわたしたちの創造主なる神がおられ、わたしたちの命に責任を持ち、神と共に生きる救いへと招き導いておられる。それがイエス キリストにおいて明らかに示された。だから、未来のことについてもイエスの言葉、神の言葉を信じるのです。

 すべてのことが明らかにされ、裁かれる終わりの日が来るのです。だから、すべての人は、自分の裁きについて畏れを抱いていなくてはならないのです。自分が終わりの日に神の裁きの座に立つことを恐れずに生きて大丈夫な者など、誰一人いないのです。そしてこれからパウロがこの手紙で語ることは、すべての人は裁かれるのであるからこそ、イエス キリストの救いなくして生きていける者などいない、ということです。

 神は、神と共に生きていけるように、ご自身を現してくださいました。わたしたちは、神の裁きを知り、正しく神を畏れ、キリストの救いに与って、神と共に生きるように、神の国に生きるようにと招かれているのです。

ハレルヤ