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聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

ルカによる福音書 21:29〜33

2017年5月14日(日)主日礼拝
聖書箇所:ルカによる福音書 21:29〜33(口語訳)

 

 イエスは、21:5から、エルサレムの滅亡そしてご自身の再臨に至る話をされてきました。そして一つの譬えを話されました。
 イエスは「いちじくの木を、またすべての木を見なさい」と言われます。
 いちじくは、ぶどう、オリーブと共に聖書によく登場する植物です。春に他の木々が花を咲かせ、葉を茂らせている中で、いちじくは春の植物より遅く花を咲かせ、葉を茂らせます。いちじくは春ではなく、夏の到来を知らせる木だと言われています。

 この話は、マタイによる福音書にもマルコによる福音書にも出てきます。ただルカは、マタイ・マルコと違って「またすべての木を見なさい」と書き加えています。ルカはローマにいる人々に対してこの福音書を書いています。当時のローマでは、いちじくはそうよく見る木ではなかったのかもしれません。いちじくを思い浮かべることのできない人に配慮して、ルカは「すべての木」と書き添えたのかもしれません。

 そしてイエスは言われます。「はや芽を出せば、あなたがたはそれを見て、夏がすでに近いと、自分で気づくのである。このようにあなたがたも、これらの事が起るのを見たなら、神の国が近いのだとさとりなさい。」

 自然の様子、その移り変わりから、生き方について考えるのは、聖書に限ったことではありません。
 平安時代から鎌倉時代にかけての歌人鴨長明は『方丈記』で、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」と川の流れの様子から人生を語り始めます。室町時代の猿楽師、世阿弥は『風姿花伝』の中で、人間の成長を花の成長と重ねて語っています。

 イエスがここで言われたのは、神の国が近いことを悟りなさい、ということです。この神の国の到来というのは、イエスの宣教の中心テーマです。マルコによる福音書では、イエスが宣教を始められたのをこう書いています。「イエスは・・福音を宣べ伝えて言われた、『時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ』」(1:14, 15)

 ここで国という単語、新約が書かれたギリシャ語では、「支配する、治める」という動詞から派生した単語です。ですから、神の国というのは、神が治め給うところ、という意味です。神に従う神の民のいるところに神の国は現れます。皆さんが神に従い、神と共に生きるとき、そこに神のご支配、導きがあり、神の国が現れてくるのです。
 この場面では、イエスはご自身が再臨される救いの完成について語ってきておられるので、ここで言う神の国とは、ヨハネの黙示録が語る「聖なる都、新しいエルサレムが、・・神のもとを出て、天から下ってくるのを見た」(21:2)という終わりの日の状況を指し示しています。そして黙示録では続いてこう記されています。「『見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである』・・『見よ、わたしはすべてのものを新たにする』」(21:3~5)

 神が創造された世界、そして神が導かれる歴史には、救いの完成、神の国の到来という目的地があります。そして目的地へと世界が導かれ、神の国が近づいていることを示すしるしが与えられます。そのことについて21:5以下で、イエスは教えてこられました。それは、今の目に見える世界が揺さぶられる出来事であり、信仰に留まる忍耐を必要とする困難な出来事です。神の国の到来、救いの完成に至るには、わたしたちが本気で神を求めていくように、揺さぶられる出来事、困難な出来事がしるしとして与えられるのです。イエスが「心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ」(マルコ12:30)と教えられたように、あなたのすべてを神へと向け、神を愛するように、揺さぶられる出来事、困難な出来事がわたしたちを促していくのです。「神よ、あなたが共にいてくださいますように。わたしを支え守り導いてください」と祈る。そういう信仰へとわたしたちを導く出来事が起こってくるのです。

 イエスは言われます「よく聞いておきなさい。これらの事が、ことごとく起るまでは、この時代は滅びることがない。天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は決して滅びることがない。」
 「よく聞いておきなさい」の「よく」と訳された言葉は「アーメン」です。アーメンは「真実に」「本当に」という意味です。「よく聞いておきなさい」を直訳すると「アーメンわたしはあなた方に言う」であり「まことにわたしはあなたたちに告げる」という意味です。これは、イエスがとても大切なことを語られるときに使われる言い方です。
 「これらの事が、ことごとく起るまで」がいつのことかは、分かりません。「その日、その時は、だれも知らない。天にいる御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる」(マルコ 13:32)とイエスは言われました。

 救いは神の御業です。救いの計画は、神の内にあります。いつかは分かりませんが、救いが完成する終わりの時が来る。それを聖書は伝えています。そのときには、この目に見える世界は過ぎ去り、天地は滅びるでしょう。すべてが新しくなる時が来るのです。先ほど読んだヨハネの黙示録も「見よ、わたしはすべてのものを新たにする」と言っています。人生に必ず終わりがあるように、この世界にも終わりがあります。しかし、それはすべてが無に帰してしまう終わりではなく、救いが完成し、すべてが新しくなる時なのです。わたしたちもこの世界も、罪から解放され、罪から清められ、神と共にある喜び、神と共に生きる幸いがすべてを満たす。すべてのものが新しくなる終わりの時が来るのです。

 けれど「これらの事が、ことごとく起るまでは、この時代は滅びることがない」のです。イエスがここで語られたことが起こったと言って慌てふためくのではありません。イエスは「これらの事が起るのを見たなら、神の国が近いのだとさとりなさい」と言われました。神は、この世の支配の中で生きるのではなく、神のご支配の許に立ち帰るようにしるしを示されるのです。

 イエスは、神の国は近い、神の国は近づいた、と言われます。イエスがこれを語られてから2000年が過ぎようとしています。一体この神の国は近いというのは、どういうことなのでしょうか。実は、これは時間的な近さではありません。神の国、神のご支配があなたの目の前に来ている。あなたは神の言葉を聞いた。あなたは、神の言葉に導かれ、神と共に生きることへと招かれている。神の国があなたの目の前に来ているのです。
 目に見える世界が揺さぶられる出来事を見たならば、それは神があなたを招いておられるしるしなのです。「この世界があなたを救うのではない。あなたを創り、あなたを愛し導くわたしが救う。さあ、わたしの許に立ち帰りなさい。神の国に生きなさい」と神が招いておられるしるしなのです。だから、しるしを見たなら、わたしたちは神の御業が前進し、救いの完成、終わりの時が近づいていることを悟り、神のご支配の許へと立ち帰るのです。

 ここでイエスは、最後に「わたしの言葉は決して滅びることがない」と言われました。これは、イエスの言葉、そして神の言葉がこの世界の終わりを超えて真実であり続けるということです。わたしたちは移りゆくこの世にあって、変わることのない真実な神の言葉によって支えられ生きていくのです。

 わたしたちが生きていくには、目に見える形あるものと、変わることのない真実なものを必要としています。イエスは荒れ野の誘惑において「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きる」(マタイ 4:4)と言われました。これは旧約の申命記 8:3の引用です。わたしたちにはもちろんパンも必要です。けれど、パンだけではなく、変わることのない真実な神の言葉、本当に信頼することのできる神の言葉が必要なのです。

 わたしたちが生きていく中でいろいろなものが揺らぎ、過ぎ去っていきます。しかし、わたしたちの救い主イエス キリストは、決して滅びることのない真実な言葉を、そして決して過ぎ去ることのない本当の救いを与え続けていてくださいます。
 このイエス キリストにあってこそ、わたしたちはどんな時も、どこにあっても、生きている時も死に臨む時にも、救いの中に生き続けることができるのです。


ハレルヤ