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聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

ヨハネによる福音書 19:17〜30

2017年4月9日(日)主日礼拝
聖書箇所:ヨハネによる福音書 19:17〜30(口語訳)

 

 イエスは、自分が磔にされる十字架を背負って、処刑場へと進みます。そこはゴルゴタされこうべと呼ばれるところです。されこうべとは、白骨となった頭蓋骨のことです。処刑場にふさわしい名前かもしれません。そこでは、3人一緒に十字架につけられました。イエスはその真ん中で十字架につけられました。
 十字架は、自分のしたことを後悔させるように、長く苦しみを味わわせる処刑法です。両手両足を釘で打ち付け、磔にします。自分の体重で息をすることも苦しく、釘打たれたところからは血が流れ続け、太陽にさらされ意識がもうろうとし、口の中も乾きます。できるだけ長く、そして必ず死に至る苦しみを与える、人々にさらし者にする、それが十字架です。

 ピラトはイエスの十字架の上に、罪状書きをかけさせました。それには「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」と書かれていました。この罪状書きは、ユダヤの言葉であるヘブル語、ローマの言葉であるラテン語、そして当時の共通語であるギリシャ語で書かれました。ゴルゴタは都の近くにあったので、多くの人がこれを目にしました。
 イエスを憎んでいた祭司長たちは「ユダヤ人の王と自称していた」と書き直してほしいと願い出ましたが、ピラトはそれを受け付けませんでした。

 イエスを十字架につけたローマの兵卒たちは、死んでしまう者には不要となる衣服を自分たちで分けていきます。「四つに分け」とあるので4人いたのでしょう。下着は縫い目のない一つ織りだったので、くじで分けることにしました。
 これは聖書の御言葉が成就したのだと、福音書は語ります。詩篇 22:18にはこう書かれています。「彼らは互にわたしの衣服を分け、わたしの着物をくじ引にする」
 イエスは運悪く殺されたのではありません。神の言葉を実現し、救いを成し遂げるために十字架を負われました。

 イエスを十字架につけた兵卒たちが、自分たちのものとなる衣服にしか興味を持ってないその場に、イエスに従ってきた女性たちが何もできずにただイエスのそばに立っていました。もちろん十字架を負うのは、罪人を救うためのイエスの務めであり、父なる神の御心ですから、女性たちが何かをすれば、イエスが十字架を負わなくてすんだという話ではありません。彼女たちは、ただ自分たちにできる最大限のこと、つまりイエスと共にいることを果たしたのです。

 イエスは十字架のもとにたたずむ母を、愛する弟子に託します。イエスは、この世にあって人として母に仕えることはできません。母に子の死を看取る悲しみさえ負わせることになります。ピエタと呼ばれる、十字架から降ろされたイエスを抱くマリヤを描いた彫刻や絵画があります。バチカンサン・ピエトロ大聖堂にあるミケランジェロピエタが有名ですが、ご存じの方も多いと思います。
 神は全能の神です。けれど、神お一人で救いの御業を完結されるのではありません。神から務めを託され、担う、神の民をお用いになります。イエスの母として選ばれたマリヤにも、名を記されていないイエスの愛する弟子にも、そしてわたしたちにも、神から託された務めがあり、託された人がいるのです。それは、神の大きな救いの御業の中にある務めです。
 マリヤは、結婚する前にイエスを身ごもりました。出産の時も、住民登録のため長旅をし、旅先でイエスを生みました。イエスが大人になってからは父ヨセフの名が福音書に出てこないことから、ヨセフは早くになくなったのではないかと考えられています。その上、息子の死を看取らねばならない。それも多くの人に憎まれ、あざけられての十字架の死です。その一つ一つに何の意味があるのかと問われても答えることはできません。しかし聖書は、神がマリヤを選びイエスの母とされ、救いの御業をなされたことを告げています。
 神の民には、神から託された務めがあり、託された人がいるのです。

 しばらくの時が経って、イエスは聖書が告げるすべてが成し遂げられることを知って「わたしは渇く」と言われました。これも「聖書が全うされるため」と言われます。先ほども出てきた詩篇 22篇にある「わたしの力は陶器の破片のようにかわき、わたしの舌はあごにつく」(15節)を指していると言われます。
 さらに「酢いぶどう酒がいっぱい入れてある器がおいてあったので、人々は、このぶどう酒を含ませた海綿をヒソプの茎に結びつけて、イエスの口もとにさし出した」とあります。
 酢いぶどう酒は、ぶどう酢を水で薄めたものだろうと言われています。ヒソプという植物は、その茎を束ねて清めの儀式に用いていました。
 そしてこの記述は詩篇 69:21の「彼らは・・わたしのかわいた時に酢を飲ませました」を指していると言われます。

 これらは福音書の編集者ヨハネの信仰を表しています。イエスが世に来られたのは、旧約の神の言葉を成就し完成するためであり、神の救いの約束をイエスが成し遂げられた。この十字架の場面でも、イエスの身に起こったこと、イエスが語られたことは、旧約の御言葉が成し遂げられたのだとヨハネが理解したことを表しています。
 ナザレのイエスと言われる人がいたこと、そのイエスが十字架につけられたことは、聖書以外、キリスト教以外の資料にも記されているようです。しかしその死が、聖書を全うするため、神の言葉を成就するためであったというのは、ヨハネの信仰です。
 旧約のイザヤ書にはこういう言葉があります。「天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種まく者に種を与え、食べる者にかてを与える。このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す」(55:10,11)ヨハネは、イエスの生涯を通して「神の言葉は真実であった。イエス キリストにおいて神の言葉は成就された」と信じたのです。
 だからこの福音書は、神の言葉であるイエス キリストの賛歌で始まるのです。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」(1:1~5)

 ヨハネはただ単に十字架の事実を伝えているのではありません。 
あの十字架において神の言葉が成就し、神の救いの御業が成し遂げられた。イエス キリストにおいて神の救いの御業は完成した。どれほど人間の罪が神の御心を拒絶し、神の御業を拒否しようとも、神の言葉は真実であり続け、神の真実こそわたしたち罪人を救う。
 ヨハネはまさしくキリストの福音をここで明らかにし、すべての人に宣べ伝えているのです。

 わたしたちは、この神の救いの御業に包まれ、喜びと感謝とをもって、十字架を仰ぎつつ受難週を歩んでいくのです。

ハレルヤ