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教理による黙想の手引き 24

教理による黙想の手引き 第24回
  (福音時報 2016年12月号掲載 一部修正 掲載時のコーナータイトルは「教理を学ぶ - 説教で聞く教理 -」 これにて連載終了)

 

「終わりの日に備える」

「集会をやめることはしないで互に励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうしようではないか。」
(ヘブル人への手紙 10章25節 口語訳)

 わたしが神学校に入学してから(1986年)「終末論的な生き方」という言葉を何度か聞きました。その言葉がどういう意味なのか聞く機会のないまま、その言葉を聞くことがなくなりました。「終末論」のブームが去ったのだろうか、と思いました。
 終末論というものは、よく分からないままでしたが、神学校時代に教えて頂いたルターが言ったと言われる「たとえ明日世界が滅ぶとしても、私はリンゴの木を植えるだろう」という言葉が、終末と聞くと思い浮かぶようになりました。

 さて、日本キリスト教会信仰の告白(口語文)には、主から委託された教会の務めに終わりの日に備えることが挙げられています。
 キリストの十字架と復活を経た後に書かれた新約の中で、終わりの日という訳語(口語訳「終りの日」新共同訳「終わりの日」)が使われるのは、ヨハネによる福音書だけです。
 終わりの日と同じような意味で使われる言葉には「主の日」と「かの日」があります。

 ヨハネによる福音書6章(6:39, 40, 44, 54)では、イエスが自分に与えられた者を終わりの日に復活させることが述べられています。「わたしの父のみこころは、子を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得ることなのである。そして、わたしはその人々を終りの日によみがえらせるであろう。」(ヨハネ 6:40)
 また12章48節では、終わりの日にイエスの言葉によって裁かれることが述べられています。「わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」(同 12:48)

 裁きについては、「かの日」という言葉で、コリント人への第一の手紙 3章13節、テモテへの第二の手紙 4章8節でも書かれています。特にテモテへの第二の手紙では、公平な審判者である主が、ご自身の民に義の冠を授けてくださることが記されています。

 この日がいつかは分かりません。「主の日」という言葉で、テサロニケ人への第一の手紙 5章2節やペテロの第二の手紙 3章10節で述べられています。「主の日は盗人が夜くるように来る。」(1テサロニケ 5:2)(参照 使徒 1:7, マルコ 13:32, マタイ 24:36)

 そして、この終わりの日に備えるということが、ヘブル人への手紙 10章25節で告げられています。「また、約束をして下さったのは忠実なかたであるから、わたしたちの告白する望みを、動くことなくしっかりと持ち続け、愛と善行とを励むように互に努め、ある人たちがいつもしているように、集会をやめることはしないで互に励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうしようではないか。」(ヘブル 10:23~25)

 つまり、終わりの日に備えるということは、終わりの日の復活と審判、義の冠を仰ぎ望み、互いに御言葉に聞き、祈りを合わせ、賛美をもって励ましつつ、その日がきょうであってもいいように、主の御業に仕えて生きる、ということです。
 一言で言えば「主の希望に生きる」ということです。
 罪の世の出来事に一喜一憂するのではなく、主の真実を信じ、神の国の到来を望み見つつ、「御国がきますように」(マタイ 6:10)、「マラナ・タ(われらの主よ、きたりませ)」(1コリント 16:22)と祈りつつ歩むのです。(他の何ものでもなく)「主に」「望みを置いて」生きるのです。

 この希望にすべての人が与れるように、教会は、主の御名を告白しつつ、終わりの日まで福音を宣べ伝えていくのです。人の死に際しても、世の終わりに際しても、造り主であり救い主である真の神にあっては、命の道があり、決して揺らぐことのない希望があることを宣べ伝えていくのです。

ハレルヤ