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教理による黙想の手引き 23

教理による黙想の手引き 第23回
日本キリスト教会発行 福音時報 2016年11月号掲載
 掲載時のコーナータイトルは「教理を学ぶ - 説教で聞く教理 -」)

 

「信徒の訓練」

「わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。」
(ヘブル人への手紙 12章5節 口語訳)

 主から委託された教会の務めに信徒の訓練があります。
 上掲の聖句は、主ご自身の訓練を述べているのであって、教会がなす訓練ではありません。主ご自身の訓練は、主の導きによる人生そのものが訓練です。
 では、主から委託され教会がなす訓練とは何でしょうか。

 実際に教会でなされている訓練は、各会(壮年会、婦人会、青年会など)での学びと交わり。教会全体でなされる修養会。それぞれが賜物に応じて担う教会の役割(長老、執事、日曜学校教師、奏楽、受付等々)のように教会の活動を通して行われています。

 では、教会が行う信徒の訓練は、何を目指しているのでしょうか。
 それは、主に従い、救いの御業に仕えるキリストの弟子を育てることを目指しているのです(マタイ 28:19)。

 主に従うためには、主の御心、主の考え方を知らねばなりません。そのためには、神の言葉である聖書を学び、教理を学ばなくてはなりません。「主よ、お語りください。主よ、お示しください」と祈りつつ学ばねばなりません。

 救いの御業に仕えるためには、「主よ、お用いください」と自分自身を主に献げていかねばなりません。そのとき、自分は伝道は苦手だからと、伝道を脇に置くのではなく、主の宣教命令の御言葉に応えて、第一に伝道のために「主よ、お用いください」と祈っていきます。
 次に、多くの人が神に出会うことができるように、教会形成のために「主よ、お用いください」と祈ります。
 そして、神が創り祝福してくださった自分自身のすべてを「主よ、お用いください」と祈ります。家族に、友人・知人・隣人に、自分を通して、神の栄光が現されるように、わたしも「祝福の基(源)」(創世記 12:2)とされるように、「主よ、お用いください」と祈ります。

 つまり、御言葉を学びつつ、献身の祈りをささげつつ、実践していくのです。

 主ご自身の訓練は、御心により、一人ひとりに用意され、人生の導きとなっていきます。
 それに対して教会の訓練は、一人ひとりに合わせてなされるわけではありません。そうであっても、教会の訓練も主と共に生きるキリストの弟子の育成を目指しているので、主がその人をどのように導いておられるかを無視して行われてはなりません。主の「すべての訓練は・・後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる」(ヘブル 12:11)からです。

 教会の訓練においては、主にあってその人を理解しようとすること、つまり、牧会が必要なのです。共に主の御前に立ち、共に主に従い仕えることを願い、主にある慰めと励ましを共有しつつなされるのです。主に従って共に歩み、主の恵みと平安に共に与る。それが教会の訓練なのです。

 学びと祈りと実践。そして、それを取り囲む牧会。その中で、信仰の目が開かれ、今も生きて働かれる主の御業を見るのです。「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ 28:20)と言われたキリストの臨在を見るのです。そして、神の国の到来と完成に向けて前進する神の御業に仕えて生きるのです。

ハレルヤ