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聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

ローマ人への手紙 1:24〜32

2017年3月19日(日)主日礼拝
聖書箇所:ローマ人への手紙 1:24〜32(口語訳)

 

 この箇所で一番注目を引くのは、同性愛に関する記述であろうと思います。おそらく長い間教会が同性愛を禁止事項としてきたことの根拠となった聖句の一つであろうと思います。しかし、この箇所は今日一般的に認識されている同性愛について論じている箇所ではありません。

 24節の冒頭に「ゆえに」とあります。これは前段からのつながりを表しています。前段で言われていたのは、偶像礼拝の問題で、神というものを知りながら、神にふさわしく崇めず、感謝もしない。自分の利益や願望の実現のために神を利用しようとする自己中心的な信仰に対する批判が述べられていました。そして、そのような罪に対する神の怒りを伝えようとしています。18節で「神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される」と書かれています。パウロは、これを伝えるために書き進めています。
 ですから、問題の中心は21節の「神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなった」ということであり、神が中心ではなく、自分が中心であるということなのです。

 そこで同性愛の問題ですが、ここは今日人権の問題として取り上げられる性的少数者LGBTとかGLBTと言われる生まれながらの性的少数者の問題ではなく、自分の快楽・娯楽の追求として行われる性行為を問題としているのです。
 この類いの問題はパウロの手紙には何回か出てきます。先週の祈り会で読みました1コリント 5:1では「あなたがたの間に不品行な者があり、しかもその不品行は、異邦人の間にもないほどのもので、ある人がその父の妻と一緒に住んでいるということである」と書かれています。明らかに生まれながらの性的指向の問題ではありません。
 強大なローマ帝国がもたらした平和の中で、楽しみ、刺激を求めていく。そんな中で起こっている出来事として同性愛が取り上げられているのです。
 29〜31節に挙げられているように、自分中心の偶像礼拝から多くの問題が生じています。その中で、同性愛が特に取り上げられているのには理由があると思います。26節に「自然の関係を不自然なものに代え」とあります。自然は、神が与えてくださった命の秩序を表します。人が罪の中で手にした自由は、その自然を不自然なものに代えてしまいます。このときに出てくる言葉が「わたしの自由」であり、「他人に迷惑はかけていない」です。自分の楽しみであり、相手も同意して楽しみを共有してくれている。誰かを傷つけたり、奪ったりしていない。他人からいろいろ言われる筋合いはない。これは聖書の考え方とは違います。だから、神と関係なく、自分を楽しませる問題として、特に同性愛が取り上げられているのではないかと思います。
 聖書が告げるのは「わたしの自由」ではなく、「飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである」(1コリント 10:31)です。聖書の基準は、他人に迷惑をかけなければ何をしてもいいではなく、神の栄光が表されるかどうかなのです。
 この点をきちんと確認した上で、この箇所は読んでいかなくてはならないと思います。この箇所におけるパウロの論述の基本にあるのは、25節の「創造者こそ永遠にほむべきものである、アァメン」という信仰です。

 さて、この箇所のパウロの論述で特徴的なのは「任せられた」という表現です。24節「神は、彼らが心の欲情にかられ、自分のからだを互にはずかしめて、汚すままに任せられた」26節「神は彼らを恥ずべき情欲に任せられた」28節「彼らは神を認めることを正しいとしなかったので、神は彼らを正しからぬ思いにわたし、なすべからざる事をなすに任せられた」3回「神は・・任せられた」という表現が出てきます。
 これは、人が神というものを知りながら、神を自分の願いを叶えるための僕にしてしまっている。神はその愚かしさに気づかせるために彼らの欲情(24節)、正しからぬ思い(28節)に彼らを任せ、その報いを身に受けさせるようにされた、ということです。
 このような表現は旧約にも出てきます。詩篇 81:11〜13にはこうあります。「わが民はわたしの声に聞き従わず、イスラエルはわたしを好まなかった。それゆえ、わたしは彼らを/そのかたくなな心にまかせ、その思いのままに行くにまかせた。わたしはわが民のわたしに聞き従い、イスラエルのわが道に歩むことを欲する」
 わたしたちは神に立ち帰り、自分の願いからさえも自由になる必要があるのです。自分が何を欲しているかをきちんと理解することは大事なことです。しかし、自分の願いが叶っていれば幸せになれるのではありません。わたしたちの命を創り、責任を持ってくださる神が、わたしたちの幸せを願い、救いの御業を成し続けていてくださいます。神の御心のなるところに、わたしたちの救いがあり、幸いがあるのです。ですからイエスはこのように祈りなさいと言って主の祈りを教えてくださいました。「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」(マタイ 6:10)

 神が「彼らを正しからぬ思いにわたし、なすべからざる事をなすに任せられ」るとき、29〜31節に列挙されている悪徳が世に満ちてくるのです。「あらゆる不義と悪と貪欲と悪意とにあふれ、ねたみと殺意と争いと詐欺と悪念とに満ち、また、ざん言する者、そしる者、神を憎む者、不遜な者、高慢な者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者となり、無知、不誠実、無情、無慈悲な者となっている」ここでは、パウロが見た、神と共に生きようとしない世界の問題を挙げています。
 今、わたしたちは比較的平和な社会に生きているので、パウロが挙げたこれらのことが少し強烈に感じられるかもしれません。しかし、わたしたちは気づいていなくてはなりません。平和と言われる日本の社会においても、振り込め詐欺、高齢者詐欺と言われることが頻発しており、毎日のニュースでは殺人や紛争、テロのニュースがなくなることなく、若者から大人までいじめや差別に苦しんでいる人々が数多くいるということを。
 わたしたちは罪の世で生きているのです。そしてパウロが列挙する悪徳の満ちてくる世にあって「平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう」(マタイ 5:9)というイエスの勧めを受けているのです。

 パウロは言います。「彼らは、こうした事を行う者どもが死に価するという神の定めをよく知りながら、自らそれを行うばかりではなく、それを行う者どもを是認さえしている」(32節)
 日本でも昔から「お天道様に恥じないように生きなさい」と言われ、「情けは人のためならず」と言われます。「罰が当たる」という言葉もあります。正しい生き方へと導こうとする知恵ある言葉は、聖書の外にも日本にもあります。しかし、この世の知恵ある言葉はイエス キリストへと導くことはありません。パウロがここで言っている神を神として崇め、感謝へと至らせ、神と共に、また神に従って生きる信仰に至らせることも残念ながらありません。

 パウロは知っています。イエス キリストの十字架と復活に依らなければ、罪から解放されず、自分自身からも解放されないことを。罪がもたらす死と滅びから解放されないことを。そして、あらゆる不信心と不義とに対して天から啓示される、神の怒りから(18節)逃れられないことをパウロは知っています。
 だからこそパウロは、神の福音であるイエス キリストをすべての人に宣べ伝えたいと願っているのです。神の怒りを受けるのではなく、神の祝福に与るように。罪に任せてしまわれるのではなく、救いの御業に与り幸いを得ることができるように。そのためにパウロも教会も、本当の救い主、本物の救い主、イエス キリストを宣べ伝え続けているのです。
 そして神は今も、神の幸いと平和に生きるようにと、わたしたちに語りかけ、招いていてくださるのです。

ハレルヤ