聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

神学入門 14

神学 聖書学11

正典04

 わたしは「聖書は神の言である」と信じ、聖書を神学の基盤としているので、自分を聖書の上に立てて聖句を選別するのをよしとしない。
 そうするのであれば、キリスト者である必要はないのではないか、と思う。自分の理性、良識に合う言葉を選別するのであれば、聖書だけでなく、他宗教の聖典でもいいし、孔子ガンジー宮沢賢治などの優れた先人の言葉でもいいだろうと思う。
 神に従う、と言いながら、神≒自分の理性・良識としてしまうのは、自分を神とする偶像礼拝ではないのか、と思う。

 昔、フェミニズムによる聖書注解というような本が出た。書店で、前回記したテモテへの手紙 一 2:12〜3:1の箇所を開いてみた。確かそこには「もはやここから聞くことはない」と書かれていたように思う。わたしは本を棚に戻した。
 ものみの塔エホバの証人)と呼ばれるキリスト教の異端がある。その人たちと話をしたときに、「でも、聖書にはこうも書いてありますよ」と言うと、「そこはいいんです」と言われた。「あぁ、この人たちは、自分たちの考えに都合のいい箇所だけ読もうとしているのか」と思った。彼らが使う『新世界訳』聖書を読むと、新約にはない「エホバ」という言葉が、新約の中にたくさん出てくる。ギリシャ語底本にはない言葉を翻訳で勝手に挿入している。彼らはこれを適切な行為だと言う。わたしは、これを聖書の改ざんと考える。『新世界訳』は聖書ではない。彼らは、自分たちの考えを聖書の上に置いている。なるほど、異端となるわけだと思った。

 わたしが所属する日本キリスト教会は、改革派教会の伝統に立つ教会である。改革派教会の旗印は「御言葉によって改革され続ける教会」である。しかし、時折「神学者の言葉によって改革される教会」なのか、と思えるような発言を聞くことがある。どんなに優れた信仰の先輩、ジャン カルヴァンであろうと、カール バルトであろうと、わたしたちの信仰の基盤とはなり得ない。優れた先達の言葉を手がかりにするときにも、聖書にまで遡って根拠を示し、神の言によって導かれ、新たにされていかなければならない。

主は生きておられる(エレミヤ 4:2 新共同訳)