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ルカによる福音書 21:10〜19

2017年3月12日(日)主日礼拝
聖書箇所:ルカによる福音書 21:10〜19(口語訳)

 

 きょうの場面は、5節からの続きです。
 エルサレム神殿は、大規模な改修工事が行われていました。その見事な石と奉納物を見て感心していた人たちに対し、イエスは神殿が破壊されることを予告されました。そしてきょうの次の箇所、20節には「エルサレムが軍隊に包囲されるのを見たならば」と書かれています。ですから、きょうの箇所もエルサレムの滅亡に関して語られた言葉です。新共同訳聖書では、7節からのところに「終末の徴」という小見出しが付けられていますが、ルカは世の終わりについて語ったのではなく、エルサレムの終わりについて語られたイエスの言葉を記したのです。

 イエスの救い主としての活動は、およそ紀元30年頃から3年間ぐらいであったと考えられています。そしてエルサレム神殿の改修工事が完了したのが、紀元63年頃、ユダヤ戦争が勃発するのが紀元66年。エルサレム神殿が破壊されてしまうのが紀元70年の出来事です。
 ですから、きょうの箇所でイエスが言われたことは、この語られた場面からおよそ40年間に起こってくる出来事を告げておられるのです。イエスが語られたのは、戦争、災害、疫病、飢饉、迫害です。

 これらは、神殿が破壊される前に起こる特別なことではありません。いつの時代にも起こることであり、今も起こっていることです。
 紛争は絶えず世界のどこかで起こっています。民は民に、国は国に敵対しているような状況は、日本にもあります。
 大きな地震は、近年日本においても多発しています。
 様々な疫病が世界に広まり、感染の流行を示すパンデミックという言葉もよく使われるようになってきました。
 日本では十分な食料があるように思えますが、世界の半数は飢えているとも言われています。
 人権ということが言われるようになって結構な時間が経ちました。世界最初の人権宣言は1776年にアメリカで宣言された「バージニア権利章典」だと言われます。そして日本最初の人権宣言は1922年に京都府で宣言された「水平社宣言」であると言われます。世界で人権が言われて250年弱、日本でも100年近くになります。しかし、世界でも日本でもいじめから迫害に至るまでなくなることはありません。近年ナショナリズムは強まりつつあり、ヘイトスピーチなど排他主義は公然と主張されるようになってきています。この国でもキリシタン時代の迫害があり、明治以降も耶蘇と言われ、石を投げられたようなこともありました。そして、これからも迫害の時があることでしょう。家族も友人も支えてはくれず、憎まれ、中には殉教する人も出てくるのでしょう。

 罪の世にあって、歴史は繰り返されるでしょう。何度争いを経験し、人を区別し差別して、それらが悲しみと怒りしかもたらさないと気づいていても、罪人はそこから離れることができずにいます。
 繰り返される罪の歴史の中で、それを貫いて成されていく神の御業にこそ、わたしたちは気づいていかなくてはなりません。

 イエスが語られたこれらのことは、世の人々が支えとし誇りとしていたものが崩れていく過程で起こってくるものです。ここではエルサレム神殿であり、神の民ユダヤ人であるということです。事実、神殿は破壊され、彼らは国を失い、キリストを拒絶しキリスト者を迫害した彼らが、迫害される者となりました。
 この箇所で、これらの言葉で、イエスが問われているのは、わたしたちが今、何を支えとし、何を誇りとして生きているのか、ということです。

 この場面の始まりはこうでした。ある人たちが神殿を見て、感心している。この神殿は素晴らしい、誇らしいと感じている人たちに対して、イエスが語りかけられました。あなた方の感心しているものが崩れ去っていく、あなた方はこれに望みを置き、これを誇りとするのではない。それを気づかせるためにイエスが語りかけられました。わたしたちは、そのことを心に留めてこの箇所を読まなくてはなりません。この箇所は単なる未来の予言ではないのです。
 ルカがこの場面を記したのは、過ぎ去り、消え去っていくものを誇りとするのではなく、変わることのない神の真実な御業、イエス キリストにこそ心を向け、喜び、望みを置くためです。この福音書の冒頭には「テオピロ閣下よ、わたしも・・ここに、それを順序正しく書きつづって、閣下に献じることにしました」(1:3)と献呈の言葉が書かれています。ルカは、世界の中心都市ローマ、エルサレム神殿をしのぐ壮麗な建物が並ぶローマもまた過ぎ去り、消え去っていくものであり、人の支えとはなり得ず、誇りとすることもできないということを、伝えようとしているのです。そしてルカは、この福音書を通してイエス キリストを伝えるのです。「この人をご覧ください。この人こそ、あなたを最後まで支え導くお方、あなたの救いとなり、あなたの誇り、望みとなるお方です」と伝えているのです。
 そして今、神ご自身がこの御言葉を通してわたしたちに語りかけ、問いかけておられます。あなたは何を誇りとし、何に望みを置いているか。誰があなたを救うのだろうか。

 すべてのものが移り変わる諸行無常の世にあって、永遠に真実であられる神以外にわたしたちの誇りとなり、支え続けてくれるものはないのです。旧約でもこう言われてきました。「ある者は戦車を誇り、ある者は馬を誇る。しかしわれらは、われらの神、主のみ名を誇る」(詩篇20:7)また「その聖なるみ名を誇れ」(歴代誌上16:10、詩篇105:3)とも言われています。ですから新約でも「『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりである」(1コリント1:31)と言われています。

 ですから19節で「堪え忍ぶ」と言われているのは、神へと思いを向け、神を誇りとし、神に望みを置くことに堅く留まる、ということです。神の許でこそ、自分自身の魂、つまりわたし自身を失うことなく、しっかりと保つことができるのです。なぜなら、このわたしの創造のときから神がわたしを愛していてくださり、わたしが失われることがないように神が救い主を遣わしてくださったからです。神の許にこそ、このわたしのあるべき場所が備えられているのです。

 罪の世で生きていれば、困難もあるでしょう、迫害もあるでしょう。中には殉教する者も出てくるでしょう。しかし、どのような時にもどんな状況にあっても、神の民は神の御手の中にあり、髪の毛一筋でも神から奪い去られることはないのです。
 神と共に歩むための言葉、わたしを支えてくれる言葉は、神が与えてくださいます。この世の基盤が揺らぎ、迫害が起こるとき、「どう答弁しようかと、前もって考えておかないことに心を決めなさい」「言葉と知恵とを、わたしが授けるから」とイエスは言われました。本当に必要なものは、神から来るのです。救いは、神が備えていてくださいます。これからもそうです。だから、どのような時にもどんな状況にあっても、神の民は神の御手の中にあり、髪の毛一筋でも神から奪い去られることはないのです。
 神は言われます。「ヤコブよ、あなたを創造された主はこう言われる。イスラエルよ、あなたを造られた主はいまこう言われる、『恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ』」(イザヤ43:1)神はそのためにイエス キリストをお与えくださいました。キリストの命によって、わたしたちは贖われ、わたしたちはキリストのもの、神のものとされたのです。
 ですからわたしたちは今、イエス キリストを誇りとし、神に望みを置いて生きていくのです。終わりの日まで、神に依り頼み、神に救われ、神に支えられて歩んでいくのです。

ハレルヤ