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聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

ローマ人への手紙 1:18〜23

2017年3月5日(日)主日礼拝
聖書箇所:ローマ人への手紙 1:18〜23(口語訳)

 パウロは、福音宣教のために3度にわたる伝道旅行を行いました。その中でギリシャの中心都市アテネにも行きました。パウロは偶像がおびただしくあるのを見て、憤りを感じ、会堂ではユダヤ人や信心深い人たちと論じ、広場では毎日そこで出会う人々を相手に論じ合いました(使徒 17:16, 17)。そこでパウロはこんなことを言っています。「アテネの人たちよ、あなたがたは、あらゆる点において、すこぶる宗教心に富んでおられると、わたしは見ている。実は、わたしが道を通りながら、あなたがたの拝むいろいろなものを、よく見ているうちに、『知られない神に』と刻まれた祭壇もあるのに気がついた。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、いま知らせてあげよう」(使徒 17:22, 23)
 ギリシャ人の信仰の熱心は、自分たちが気づいていない神に失礼があってはならないと考えて、『知られない神に』と刻まれた祭壇まで作っていました。そこでパウロは、あなたたちの知らない神について知らせようと言って神の救いの御業について語りました。

 パウロは世に数え切れない神々がいることを知っていました。そして、パウロよりも広い世界を知っているわたしたちは、パウロ以上にたくさんの神々が世にはいることを知っています。ギリシャ・ローマの神々、エジプトの神々、北欧の神々、ヒンズーの神々、そして日本の八百万の神々。キリスト者に聞くまでもなく、聖書に依らずとも、人々は神なるものを知っています。パウロは「神について知りうる事がらは、彼らには明らかであり、神がそれを彼らに明らかにされたのである。神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである」(19, 20節)と言っています。

 人は、その長い歩みの中で、自然の恵みなくして生きていけないことを理解してきました。農業、狩猟、漁業、林業、自然と関わる人たちは、神を無視して生きることはありませんでした。神が自然の恵みを与え、生きることを守り支えてくださるように神を祭ってきました。自然の力を前にして、人の命が奪われてしまうことを覚えて、神の守りを祈願してきました。はかなく短い人の命と比べて遙かに長い時を生き存在している木や岩や山を崇めてきました。そこに神の永遠の力と神性が宿っていると信じて崇めてきました。便利になった都市で暮らす人たちは神を畏れ敬う思いが薄らいできていますが、今でも自然と関わる仕事をする人たち、命に関わる危険のある仕事に携わる人たちには、神事は欠かせません。
 だからパウロは語ります。「彼らには弁解の余地がない。なぜなら、彼らは神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである。彼らは自ら知者と称しながら、愚かになり、不朽の神の栄光を変えて、朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せたのである」

 パウロは、人々が被造物、つまり自然から知った神への信仰は適当ではないと言っています。聖書が教える信仰は、神が中心です。神が主であり、わたしたちは僕です。しかし、自然から知った神への信仰は、自分が中心の信仰です。自分たちの生活が恵まれるための信仰であり、自分たちの命が守られるための信仰です。このような信仰の場合、文明により生活が豊かになり、命の危険が減っていくと、神を信じ敬う必然性が薄らいでいきます。多くの日本人が「宗教を信じてはいない」と言うのもそのためです。
 この人間が益を受けるための信仰は、様々な偶像を作り出してきました。パウロは「自ら知者と称しながら、愚かになり、不朽の神の栄光を変えて、朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せた」と語ります。
 わたしたちの周りにもいろいろあります。菅原道真を祭る太宰府天満宮徳川家康を祭る日光東照宮明治天皇を祭る明治神宮。日本でも朽ちる人間を祭ります。
 そればかりではありません。罪が働くとき、教会の中でさえ、人間を祭り上げることがあります。日本基督教会の歴史の中で大きな働きをした植村正久という牧師をご存じでしょうか。わたしが神学校にいた頃は、植村正久についての特別講義が行われていました。数人の牧師による連続講義で、ある講義に植村正久から洗礼を受けたという高齢のご婦人が出席されました。講義の後の質疑応答の時間にそのご婦人が発言をされました。その発言の中の一言を今でもよく覚えています。そのご婦人はこう言われました。「植村先生は神さまのような方でした」わたしはそれを聞いて「罪を抱えたわたしたちは、キリスト者であっても偶像を作り出してしまうのだろうなぁ」と思い「どうしたらちゃんと神を伝えられるのだろうか」と考え、今に至るまで考え続けています。
 そして、人は神の使いとされる鳥や蛇、神獣と呼ばれる動物たちを考え出し、偶像を作り続けてきました。聖書の中に出てくる例としては、旧約の民が作り出した金の子牛が有名です。
 しかし、人であろうと、動物であろうと、木や岩、山であっても、神の代わりにはなりません。神以外のものに神は務まらないのです。

 自分中心の信仰で、神ならぬものを神としてしまう罪に対して、パウロはこう語ります。「神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される」(18節)
 神は、愛する人を滅びへと導く罪に対して、お怒りになります。神は、愛する者と共に生きることを願っておられます。それを破壊する罪を、お許しにはなりません。わたしたちも、共に生きることを壊されたら、怒らずにはおれません。しかし、わたしたちは罪がもたらす死に対して無力です。ただ、神だけが死を打ち破り、そこからわたしたちを救い出すことがおできになります。
 わたしたちはきちんと知らなくてはなりません。罪を打ち砕き、わたしたちを命に至らせるために、神はご自身のひとり子をおささげになったということを。ひとり子をおささげになるほどの、わたしたちに対する神の愛と、罪に対する神の怒りをきちんと知らなくてはなりません。
 「神はそのひとり子を賜わったほどに」わたしたちを愛しておられます。わたしたちを救うために、神はイエス キリストの命という高価な代価を支払ってくださいました。「それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るため」であります(ヨハネ 3:16)。わたしたちが神と共に生きられるようになるため、神は他の何ものにも代えることのできないキリストの命をささげ、罪をきちんと裁いて、わたしたちを罪から解き放ってくださいました。十字架は、神の怒りの啓示です。人間のあらゆる不信心と不義とに対して、神はキリストの十字架において裁かれたのです。このお方だけが、わたしたちの罪を解決し、罪から救ってくださるお方です。このお方だけが、わたしたちの命に責任を持ってくださる方なのです。

 パウロは、このわたしたちを愛し、わたしたちを救う真の神を知っているので、自分の安全と豊かさを願い、自分の願いを叶えるために神を動かそうとする信仰に対して厳しく語るのです。「彼らは神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである。彼らは自ら知者と称しながら、愚かになり、不朽の神の栄光を変えて、朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せたのである」

 わたしたちは、偶像礼拝に至る自分中心の信仰ではなく、神の言葉に聞いて、神の言葉に育まれる信仰を大事にしていかなければなりません。なぜなら今に至るまで、神はキリストが死に勝利された日曜日ごとに、わたしたちの名を呼び、御前へと招き、救いへと導いておられるからです。神はきょうも、わたしたちを救い、共に生きるために、御言葉を通して語りかけてくださいました。どうか、御言葉によって神を知り、神と共に生きる救いに与って歩まれますように。

ハレルヤ