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教理による黙想の手引き 19

教理による黙想の手引き 第19回
日本キリスト教会発行 福音時報 2016年7月号掲載
 掲載時のコーナータイトルは「教理を学ぶ - 説教で聞く教理 -」)

 

「教会-神の家族」

「あなたがたは、・・聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである。」(エペソ人への手紙 2章19節 口語訳)

 人は、その内に父・子・聖霊の交わりを持つ神にかたどって造られました(創世記 2:26)。ですから、交わりは人の本質です。しかし、その本質が罪によって破壊されてしまいました。罪は自分の善悪、自分の思いに執着させます(創世記 2:17, 3:5)。それは、自分と違う他者(神、隣人)を理解し、共感し、共に生きることを妨げます。ですから、個人が尊重される時代になればなるほど、人間関係は難しくなり、ストレスは増大します。
 神の救いの御業は、この罪がもたらした悲しみからわたしたちを救い出そうとします。教会も、この罪から救い出すための神の御業の一つです。

 前号でも記しましたが、日本キリスト教会信仰の告白(口語文)では「教会はキリストのからだ、神に召された世々の聖徒の交わり」であると告白されています。
 教会にはこの「キリストのからだ」という性質と、「聖徒の交わり」という性質があります。共に罪に対抗する性質です。ですから教会は、神の民が罪と戦いながら神に従って生きるために、神によって建てられた恵みなのです。

 今回は「聖徒の交わり」について、上掲の聖句、特に「神の家族」をもとに考えていきましょう。
 最初に記したように、人は交わりを本質としてますので、共に生きる社会的な存在です。その基本単位が家族です。家族は、共に生きようとする意志(愛)と、命のつながりによって存在します。そして教会は、神の罪人と共に生きようとする意志(愛)と、イエス・キリストとの命のつながりによって存在します。教会は、神の家族なのです。
 家族も教会も、交わりを本質とする人が生きるために(創世記 2:18「人がひとりでいるのは良くない」)神が備えてくださった恵みです。

 しかし、神の恵みを恵みと感じられない、思えないのが、罪の持つ悲しみです。このわたしたちが罪人であること、そして罪から救い出すために神は御業をなしておられることを忘れてしまい、家族や教会に自分の理想や期待だけを求めると、失望してしまいます。
 救いにより、神との新しい関係に入れられたわたしたちは、神の愛と赦しにより絶えず新しい命に生まれることが必要です。「だれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(ヨハネ 3:3)命は生きることの継続です。日々、呼吸し食事をして生きているように、生きることは動的な事柄です。静的なように思えても、命は生きるという動的な事柄の継続です。
 信仰生活、そして教会生活は、礼拝における神との交わりを核としています。そして、祈りという日々の霊的な呼吸、御言葉という霊的な糧を与えられ、霊的な命を養われて、日々新しく生まれ、生きることによって続いていくのです。

 ですから、父・子・聖霊なる神がこのわたしに働きかけ、救いの業をなしてくださることを祈り求めることなしに、救いの中で生きる新しい神の家族としての生活は成り立ちません。
 罪が自分に執着するのに対して、救いの中で生きる新しい命は、神の御業に自分を委ねていくのです。神が、新しい神の家族、新しい生きる関係を与えてくださるのです。

 前号にも書きましたが、罪を抱えたわたしたちにとって、教会生活はわずらわしい部分があります。しかし、教会は共に罪を超えて生きていくための神の恵みです。この世の罪の現実の中で、時に教会から離れ、距離を置くことがあるかもしれません。けれど、教会は主がお建てくださったものです。「わたしは・・わたしの教会を建てよう」(マタイ 16:18)。教会は、救いに入れられるようにと神がお建てくださった恵みです。そのことを心に留め、神の御業を信じて頂きたいと願います。救いの御業が完成する終わりの日には、世々の聖徒たち(神の家族)と共に、主の祝宴に与ることを望み見てまいりましょう。

ハレルヤ