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ローマ人への手紙 1:16, 17

2017年2月19日(日)主日礼拝
聖書箇所:ローマ人への手紙 1:16, 17(口語訳)

 

 パウロは、すべての人に福音を伝える責任があると考えています。だから、ローマにいる人々にも福音を宣べ伝えたいと言っています。
 そしてパウロは「わたしは福音を恥としない」と言います。
 なぜパウロはこういう言い方をしたのでしょうか。なぜパウロは「わたしは福音を誇りとする」と肯定的な言い方をしなかったのでしょうか。

 いくつか理由が考えられます。第一には、イエスがマルコ 8:38でこう言っておられます。「邪悪で罪深いこの時代にあって、わたしとわたしの言葉とを恥じる者に対しては、人の子もまた、父の栄光のうちに聖なる御使たちと共に来るときに、その者を恥じるであろう」このイエスの言葉に対応して、パウロは自分の立場を明らかにするためにこのような言い方をしたと考えられます。
 第二に、イエスが負われた十字架はローマの処刑方法でした。ローマ帝国への反逆罪のような重罪を犯した者になされる刑罰です。ローマ帝国の首都ローマに住む人たちにとって、十字架につけられたイエスを救い主と信じるというのは、どこか引け目を感じることだったかもしれません。だからパウロは、このような言い方を選んだと考えられます。
 第三に、パウロはコリント人への第一の手紙 1:18以下でこのように語ります。「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である」きょうの箇所とよく似た言い方です。きょうの箇所では「福音、それは救いを得させる神の力」だと語り、1コリントでは「十字架の言は、救いに与るわたしたちには、神の力」だと語ります。そして1コリントではこの言葉の後に、「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである」と語っています。罪の世に属する者にとっては、キリストの十字架、キリストの福音は、恥かもしれない。しかし、神によって救いへと召された者には、神の力であり、福音なのです。だからパウロは、あえてこの言い方を選んだと考えられます。

 パウロは、福音という言葉を使います。これは「よい知らせ」という意味の言葉で、広く一般社会で使われていた言葉です。パウロはこの言葉を、1節では「神の福音」と言い、10節では「御子の福音」15:19では「キリストの福音」と言っています。そして自分はこの福音を宣べ伝えるために召されたと言います。それは、ギリシャ語を話す人にも、話さない人にも、賢い者にも、無知な者にも、つまりすべての人に宣べ伝えるために自分は召されたのだ、と言っています。
 そして、神が御子イエス キリストによって与えてくださったよい知らせ、福音は「ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力」なのです。事実、キリストの福音が宣べ伝えられていく中で、数え切れない人々が救いに入れられてきました。福音は神の力であるというのは、パウロ自身が神によって示され続けた事柄でした。

 パウロローマ帝国の市民権を持つ者ですが、生粋のユダヤ人です。イスラエルの十二部族の一つベニヤミン族の出身であり(ピリピ 3:5)、ユダヤ教の教師ガマリエルの指導を受けた(使徒 22:3)人物です。
 わたしたちもよく知っているとおり、神はご自身の言葉によって世界とそこに生きる命を創造されました(創世記 1:1〜2:3)。もちろん、パウロもよく知っています。しかし、パウロは驚いたであろうと思います。キリストの福音が宣べ伝えられると、信仰のなかったところにキリストを信じる信仰が生まれるのです。救いのなかった世界に救いが生じるのです。
 パウロ自身、宣教についてこう言っています。「神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされた」(1コリント 1:21)パウロから見ても、宣教は愚かなのです。全能の神であれば、他にいくらでも方法があるはずなのです。しかし、神は世の始めに世界と命を造られたのと同じように、ご自身の言葉によって、救いを生み出されました。まさしく福音は「ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力」なのです。
 そして神は今も、わたしたちにキリストの福音を語り聞かせ、救われて生きるようにと礼拝へと招き続けてくださっているのです。

 パウロは続けて語ります。「神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、『信仰による義人は生きる』と書いてあるとおりである」
 聖書において「義」とは、正しさ、それも正しい関係にあることを示します。第一に、神との正しい関係を表すものです。
 神が与えてくださる正しさ、あるいは神がお求めになる正しさは、キリストの福音の中に示されています。神とわたしたちとの正しい関係は、神が遣わされた救い主イエス キリストを信じて、神の子とされて、神と共に生きることです。
 神と共に生きていくために、イエス キリストが救い主となってくださった、命をささげてくださった。この方が命をささげてくださったから、わたしの罪は贖われている、赦されている。罪によって壊れていた神との関係が回復され、神と共に生きられるようになった。安心して、喜んで神へと立ち帰ることができる。だから、神を喜ぶ者として生きていく。それが、神がお与えくださる正しさ、神がわたしたちにお求めになる正しさであります。ですから、義人、すなわち正しい人とは、神の救いの御業を信じて、救いの中に入れられて、神と共に生きている人です。

 これは旧約の時代から告げられていたことです。パウロがここで引用している「信仰による義人は生きる」という言葉はハバクク 2:4の言葉です。さらに遡って、創世記 15:5, 6ではこう記されています。「主は彼を外に連れ出して言われた、『天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい』また彼に言われた、『あなたの子孫はあのようになるでしょう』アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた」
 これは、アブラムが神に対して「主なる神よ、わたしには子がなく、わたしの家を継ぐ者はダマスコのエリエゼルであるのに、あなたはわたしに何をくださろうとするのですか。あなたはわたしに子を賜わらないので、わたしの家に生れたしもべが、あとつぎとなるでしょう」と言ったときの出来事です。アブラムも妻も年老いていて、子どもが与えられるとは、予想も期待もできない。しかしアブラムは、自分の経験や知識の中に神を閉じ込めずに、神の言葉を信じました。そして神は、神を信じたアブラムを正しい、義と認められたのです。神を信じる、それがあなたとわたしとの正しい関係だ。目で見ることなく、手で確かめることなく、わたしを信じた。あなたを義としよう、と神は言われたのです。
 ですから「信仰による義人は生きる」あるいは「義人は信仰によって生きる」ということは、新約の時代になってから言われるようになったことではなく、旧約の時代から示され教えられてきた事柄なのです。

 神を信じることによって、神との正しい関係に入れられた人(義人)は、信仰の道を歩み続けます。救いの完成へ向けて、信仰から信仰へと歩み続けます。いよいよ神を知り、いよいよ神を信じ、いよいよ神を喜ぶ信仰の道を歩み続けます。そして、自分の前に用意されている永遠の命を、神の国の住まいを仰ぎ見る。そのように、この信仰は信仰に始まり、信仰に至らせるのです。

 パウロは自らの回心を通して、神の力ある御業を経験しました。そして宣教を通して、キリストの福音が神の力であり、人を救うことを知りました。パウロはこの神の恵みを、まだ見ぬローマの人々と分かち合いたいと願い、この手紙を書いています。そして神は、この手紙をご自身の言葉とされ、時を超えて、今わたしたちに語りかけておられるのです。
 キリストの福音によって救いを得なさい。福音によって神の力を味わいなさい。信じる者となり、信仰によって生きよ。神は今も変わらずにわたしたちの救いを願い、わたしたちが神と共に生きることを願って語りかけていてくださいます。

 神は、わたしたちを救いへと、命へと招いておられます。今、神の御声を聞いて信じる者は幸いです。

ハレルヤ