神学入門 09
神学 聖書学06
釈義02
聖書を理解するために、わたしたちは解釈する。解釈しないで、聖書を理解することはできない。
創世記1章に天地創造の記事がある。天地創造は7日間でなされたと記されている。
これを、神は全能であるから、と考えるのは、解釈である。
「千年といえども御目には/昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません」(詩編 90:4)を思い浮かべて理解しようとするのも、解釈である。
天体の運行など、何らかの科学的根拠を考えるのも、解釈である。
当然、ここが神話的表現と理解するのも、解釈である。
大学生の時分、キリスト者は禁酒・禁煙であるべきと考える友人と話をしていたとき、最後の晩餐ではぶどう酒(お酒)が使われたではないか、と言うと、「イスラエルにおいてパンとぶどう酒というのは、日本におけるご飯と味噌汁である。聖書にぶどう酒が出てくるから酒を飲んでもいいとはならない」と答えが返ってきた。これも解釈である。
わたしたちは、聖書を理解し、神の御声を聞くためには、解釈しなければならない。
その聖書を解釈する作業を「釈義」と言う。
釈義は、聖霊の導き、示しを祈り求めつつなされるものである。
主は生きておられる(エレミヤ 4:2 新共同訳)