聖書の言葉を聴きながら

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教理による黙想の手引き 17

教理による黙想の手引き 第17回
日本キリスト教会発行 福音時報 2016年5月号掲載
 掲載時のコーナータイトルは「教理を学ぶ - 説教で聞く教理 -」)

 

「聖書 - 神の言」

「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。」(テモテの第二の手紙 3章16節 口語訳)

 日本キリスト教会信仰の告白は「旧・新約聖書は神の言であり、そのなかで語っておられる聖霊は、主イエス・キリストを顕らかに示し」と告白しています。
 聖書が神の言であるのは、聖書の中で聖霊がキリストを証ししているからです。

 聖書は間違いなく人が書いた文書です。そしていろいろある文書の中で、どれが神の言である聖書に入るかを協議した会議があります。聖書は、人が書いて、人が決めた人間の文書のように見えます。
 しかし、信仰の告白が語るように、その内で神である聖霊がキリストを顕示しておられると確信した文書、つまり、神がわたしたちの救いのためにこの文書を通してご自身の救いの御業を明らかにし、わたしたちに語りかけ、わたしたちに出会い、わたしたちと共に生きようとしておられると、知らされた文書を聖書として認めたのです。
 これは人が認めてあげたのではありません。「神よ、あなたは人を救うために、この文書を通して語りかけ、キリストと出会わせてくださり、あなたとの交わりに入れてくださいました。主よ、感謝します」と神の御前で身を低くし、感謝と喜びとをもって認めたのです。

 教理は聖書の要約です。ですから、教理にとって最も大切なのは、教理の基となる聖書の御言葉そのものに触れることです。そのとき、教理は神の言を聞く大切な機会となり、そこには神ご自身を知る喜びがあふれてきます。
 もし教理が、聖書を離れて一人歩きするならば、そこに教条主義が現れ、教理は命のないつまらないものになってしまうでしょう。
 大切なのは、神の言を通して、神ご自身を知り、出会うことなのです。

 聖書は告げます。「わたしたちがまた絶えず神に感謝しているのは、あなたがたがわたしたちの説いた神の言を聞いた時に、それを人間の言葉としてではなく、神の言として―事実そのとおりであるが―受けいれてくれたことである。そして、この神の言は、信じるあなたがたのうちに働いているのである。」(1テサロニケ 2:13)
 神の言は、単なる知識、情報ではありません。神の言は、生きて働くのです。それによって、わたしたちは神を経験するのです。

 聖書は告げます。「わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。これを書きおくるのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるためである。」(1ヨハネ 1:3, 4)
 神は、ヨハネの信仰を通してご自身の御旨を示されました。神は、神の言を通してご自身との交わりに招き入れてくださいます。そして、そこには喜びが満ちあふれているのです。

 まさしく標題の聖句のとおり「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益」(2テモテ 3:16)なのです。
 聖書は、わたしたちが神の御声を聞き、神に出会い、神の御旨を知るために与えてくださった恵みの書物です。

 現代は情報化時代です。様々の有益な情報、書籍、また面白いもの、思索に富むもの、心に響くものがたくさんあります。しかし、わたしたちを愛し、わたしたちを造り、わたしたちを救う真の神と出会うことのできるのは、聖書だけです。どんなに優れた神学書もこれに優ることはありません。

 今、聖書を与えられていることを喜びましょう。神の御声を聞くことを喜び楽しみましょう。

ハレルヤ