聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

ローマ人への手紙 1:12〜15

2017年2月5日(日)主日礼拝
聖書箇所:ローマ人への手紙 1:12〜15(口語訳)

 パウロは11節で「わたしは、あなたがたに会うことを熱望している。あなたがたに霊の賜物を幾分でも分け与えて、力づけたいからである」と語りました。パウロが言う「霊の賜物」とは、6:23で述べている「キリストの永遠の命」です。そこにはこう書かれています。「神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである」。この永遠の命を分かち合い、力づけるということは、「互いの信仰によって、共に励まし合うことに他ならない」とパウロは語ります。

 パウロは、共に励まし合う信仰を語ります。共に励まし合う信仰とは、どういう信仰でしょうか。それは、共通する信仰、同じ信仰です。共にイエス キリストを救い主と信じている。共にキリストに従って生きようとしている。共に礼拝し、共に祈り、共に讃美を献げ、共に福音を宣べ伝える。そのような信仰を共有しているとき、互いの信仰によって励まし合うことができるのです。キリスト教の信仰は、共有する信仰です。

 現代は、様々な人権が重んじられる時代です。個人の自由が尊重される時代です。そのような中で、信仰の自由も語られます。しかし、わたしたちキリスト者は自分の好き勝手な信仰を持つのではありません。「どう信じようとわたしの自由でしょ」というのは自分好みの偶像礼拝をすることであって、キリスト教の信仰ではありません。
 わたしたちの信仰は、真の神へと立ち帰り、神に従って生きる信仰です。神の御業によって宣べ伝えられてきた神の言葉を聴いて、神に出会い、神を知ったのです。
 わたしたちがきょうも告白する日本キリスト教会信仰の告白には、最後使徒信条が告白されます。この使徒信条は、2世紀後半のローマ信条に遡るものだと言われています。わたしたちの信仰は、2千年にわたるキリスト教会の信仰に連なるものです。わたしたちの信仰は、時を超え、世界を包む、神が与えてくださった信仰です。
 ですから、今わたしたちがローマ人への手紙を読んでいくとき、パウロの信仰がわたしたちの信仰を励ますのです。そして聖書に依れば、わたしたちがパウロの信仰によって励まされるとき、わたしたちの信仰はパウロを励ますのです。聖書は「あなたがたとわたしとのお互の信仰によって、共に励まし合う」と書いています。パウロの信仰によってわたしたちが励まされるならば、わたしたちの信仰によってパウロも励まされるのです。
 これは一体どういうことだろうか、と思い巡らす中で一つの幻を示されました。神の国にいるであろうパウロが、神から歴史を貫く救いの御業を見せられるとき、「わたし(パウロ)はイスパニアまで(今日のスペイン)福音を伝えに行きたいと考えていました。しかし、神よ、世界はわたしが知るよりも遙かに広く、あなたは日本にまでわたしの手紙を伝えてくださったのですか。あなたは、迫害者であったわたしをこうまでお用いくださるのですか」と時を超えてパウロの手紙を読み、信仰を励まされるわたしたちを見て、パウロも励まされるのです。神がわたしたちに与えてくださった信仰は、わたし個人に収めてしまえるような小さなものではないのです。

 パウロは「飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである」(1コリント 10:31)と言っています。飲むこと食べることも含めて、わたしたちの全生活、全人生が信仰と関わるのです。たとえ欠け多き信仰であっても、信仰を個人的な事柄、小さな事柄と考えるのは誤りです。神がわたしたちに与えてくださった信仰は、代々の聖徒たちと共有し、共に励まし合うことのできる信仰なのです。

 パウロは、この信仰を共有すべく、ローマへ行くことを企ててきました。けれど、パウロが述べているように「あなたがたの所に行こうとしばしば企てたが、今まで妨げられて」きたのです。救いの御業は、神ご自身がなし給うものです。「すべてのわざには時がある」(伝道 3:1)と言われているとおり、神のご計画があり、神の時があるのです。もし、パウロがローマに行くことができていれば、この手紙は書かれなかったかもしれません。パウロの企てが妨げられ、このローマ人への手紙が書かれたことにも、神の御心、神のご計画があります。
 わたしたち自身も、自分の思いを超える神の導きよって、定められた時に救いに入れられたことを思い、主の御手に委ね、祈っていかねばなりません。

 パウロは「ギリシャ語を話す人にもギリシャ語を話さない人(未開の人)にも、賢い者にも無知な者にも、果すべき責任がある」と語ります。つまり、すべての人に対して果たすべき責任があると言っています。それでパウロは、わたしの「切なる願いは、ローマにいるあなたがたにも、福音を宣べ伝えること」なのだと語るのです。
 パウロならそう願うだろうと思います。わたしも、この教会に来ることのできるすべての人に福音を伝えたいと願っています。そしてこの教会に来るすべての人が、神と出会い、神を信じることができるようにと祈っています。聖書朗読と説教との前に、「聖書朗読と説教を祝福して、神ご自身が語りかけてくださり、出会ってください」と祈るのは、まさしく「切なる願い」なのです。

 皆さんは、この信仰を共有してくださるでしょうか。パウロと共に、そして何よりも神と共にこの信仰を共有してくださるでしょうか。神の願いは「すべての人が救われて、真理を悟るに至ること」(1テモテ 2:4)です。
 時に神は教会の企てを妨げ、試練を与えられることもあります。わたしたちには、神のご計画を知り尽くすことはできません。それでも代々の聖徒たちは、共に御言葉に聴き、祈りを合わせ、讃美を共にしつつ、互いの信仰によって励まし合いながら救いの御業に仕えてきました。神がひとり子を救い主としてお遣わしくださり、その御心を疑い得ない形でお示しくださいました。イエスも十字架を負い抜いてくださり、救いが確かであることを明らかにしてくださいました。この神の救いの御業、神の真実に支えられ導かれて、代々の聖徒たちは互いの信仰により励まし合いながら仕えてきました。
 きょうは先ほど十戒を読みました。そこにはこうありました。「わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には恵みを施して千代に至るであろう」(申命記 5:10)。千代とはどれほどの時間でしょう。老舗のご主人が15代目とか18代目というのを耳にしますが、千代とはどれほどの時間でしょう。パウロの手紙は2千年の時を超えてわたしたちに語りかけ、わたしたちの信仰を励まします。わたしたちに与えられた信仰とは、一体どれほどのものなのだろう、と思います。
 わたしたちも、代々の聖徒たちを結び合わせる信仰に共に与り、共有し、励まし合いつつ救いの御業に仕えていきたい。わたしは、そう願っているのです。

ハレルヤ