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聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

ローマ人への手紙 1:9〜11

2017年1月22日(日)主日礼拝
聖書箇所:ローマ人への手紙 1:9~11(口語訳)

 

 パウロは、まだ行ったことのないローマの教会、まだ会ったことのないローマ教会の人々に手紙を書いています。
 ローマでご自身の民を起こし、教会を建ててくださった神に感謝した後、パウロが語ったのは、「いつかは御旨にかなって道が開かれ、どうにかして、あなたがたの所に行けるようにと願っている。・・わたしは、あなたがたに会うことを熱望している」ということです。
 パウロは1:5で言っているように「すべての異邦人を信仰の従順に至らせるようにと・・使徒の務」を与えられたと信じています。ですから、この手紙の終わりの方15:28では「あなたがたの所をとおって、イスパニヤ(今のスペイン)に行こうと思う」と述べています。パウロは本気で当時の全世界、地中海世界全部にイエス キリストを伝えることを願っていました。
 ですから、「いつかあなた方のところへ行きたい。あなた方に会いたい」というのは、手紙を書くときの約束事でもなく、社交辞令でもありません。本気で思っている、まさしく「熱望している」のです。
 これは、パウロの信仰の思いです。だからパウロは、「このことについて、わたしのためにあかしをして下さるのは、わたしが霊により、御子の福音を宣べ伝えて仕えている神である」と述べるのです。
 「わたしが霊により、御子の福音を宣べ伝えて仕えている神である」という表現は、少し分かりづらいかもしれません。「霊によって仕えている」という言葉は「神」にかかっています。霊の働きは、結び合わせるという働きです。つまりパウロは、わたしは神に結び合わされて、キリストの福音を伝えている、と言っているのです。ですから、神に仕えているわたしの願い、ローマへ行って、ローマの教会の人々に会いたい、そのために祈っている、そしてこの祈りが真実であることは神が証ししてくださる、と言っているのです。
 神を引き合いに出してまで、パウロが「会うことを熱望している」と伝えるのは、「霊の賜物を幾分でも分け与えて、力づけたいから」です。

 では「霊の賜物」とは何でしょうか。賜物という言葉は、「カリスマ」(ギリシャ語)という言葉が使われています。このカリスマという言葉は、日本語になりつつある言葉です。「カリスマ美容師、カリスマシェフ、カリスマモデル」などという言い方をよく耳にするようになりました。日本では「第一人者」「その世界でも優れた能力を持つ人」というような意味で使われているようです。では、聖書において「カリスマ」という言葉がどういう意味でしょうか。ギリシャ語の辞書を見てみますと、「カリス」というのは「恵み」という意味で、「カリスマ」には「賜物、授かり物」とあります。
 パウロが「霊の賜物を幾分でも分け与えて、力づけたいから」というとき、自分の持っている力でローマの人たちを力づけてあげよう、と考えているのではありません。パウロはこの後、「カリスマ、賜物」を「恵みの賜物」「神の賜物」という言い方をしますが、「カリスマ、賜物」が何かが一番分かる表現を6:23でしています。パウロは言います。「罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物(カリスマ)は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである」。パウロは、ローマの人々と共に永遠の命というカリスマ、賜物に共に与りたいと願っているのです。

 もちろん、永遠の命はパウロの自由になるものではありません。けれど神は、永遠の命を与えるため、パウロを使徒とされました。ヨハネによる福音書17:3でイエスご自身がこう言われています。「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります」。そして、イエスご自身が「すべての異邦人」にキリストを伝え、真の神を知らせるために、パウロを使徒に召されました。
 「神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられ」ます(1テモテ 2:4)。そして神がお遣わしくださった救い主イエス キリストは「わたしたちの罪のための、あがないの供え物で」あり「わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のため」の供え物です(1ヨハネ 2:2)。ですからパウロは、すべての人とこの恵みを分かち合いたい、共に与りたいと願っているのです。
 この神の熱意、すべての人が救われてほしいという神の熱意に導かれて、パウロは生涯福音を宣べ伝えました。そして、パウロに続いて教会も、2,000年イエス キリストを宣べ伝えてきたのです。それは、ついにわたしたちのところにまで至りました。パウロの手紙を通して、今、神がわたしたちに語りかけておられます。神ご自身が、わたしたちに会うことを熱望しておられ、霊の賜物すなわち永遠の命を分け与えて、力づけたいと願っていてくださるのです。

 ただし、時と計画は、神の領分であります。パウロはそれを知っています。だからパウロは「いつかは御旨にかなって道が開かれ、どうにかして、あなたがたの所に行けるように」と祈り願います。
 使徒行伝16章で、パウロはアジアで宣べ伝えることを聖霊に禁じられ、その後、夢で幻を見てマケドニアへ、つまりアジアからヨーロッパへ福音を宣べ伝えるように導かれました。パウロが神の御業に仕えているからといって、パウロが考えているとおりに事が運ぶのではありません。
 救いは、神の御業であり、神のご計画です。イエス キリストが救い主として来られたのも、十字架にかかられたのも、そして復活されたのも、わたしたちの計画ではありません。永遠の命も、わたしたちの所有物ではありません。すべては、神の愛と真実のうちにあるのです。
 聖書にはこう記されています。「人の心には多くの計画がある、しかしただ主の、み旨だけが堅く立つ」(箴言 19:21)。時と計画は、神の領分なのです。

 だから、わたしたちは祈ります。主にあって、大いなる希望を与えられ、熱望しつつ、祈ります。神ご自身が、捉えきることのできない大きな御心をもって御業をなしていてくださるので、安心して、委ねて、祈りつつ、信仰の道を歩んでいくのです。

 このときわたしたちは、大きな幻を与えられます。救いの完成という大きな幻を与えられます。パウロの手紙を、神がお用いになるとき、2,000年の時を超えて、神の変わることのない御心を伝えてくださいます。「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さる」のです(ローマ 8:28)。アブラハムの信仰は空しくなりませんでした。主が彼に言われた「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい。あなたの子孫はあのようになるでしょう」(創世記 15:5)は真実でした。旧約の詩人たちの祈りも空しくなりませんでした。イエス キリストが来られて、救いの御業を成し遂げてくださったからです。そして、わたしたちの信仰も空しくなることはないのです。
 わたしたちは今、神の愛と真実に支えられ守られて、大きな希望の中を生きる者とされているのです。

ハレルヤ