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聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

ローマ人への手紙 1:8

2017年1月8日(日)主日礼拝
聖書箇所:ローマ人への手紙 1:8(口語訳)

 

 待降節降誕節に入ったので、1ヶ月半ほど中断しました。
 1~7節は、ローマ教会への挨拶でした。パウロはまだローマに行ったことがありません。会ったことのない人たちへの手紙です。人づてにローマの教会のことは聞いています。それで、パウロは手紙を書きたい、書かなくてはと思い、この長い手紙を認めました。

 この手紙以外でローマの教会について分かることはそう多くはありません。使徒 2:10には、聖霊が使徒たちに下り、いろいろな国の言葉で福音を語り出したとき、そこにローマから旅に来ている人がいたことが書かれています。帰国してから、この人がエルサレムでの体験を話したかもしれません。使徒 18章では、パウロギリシャのコリントに行ったとき、ローマ皇帝がユダヤ人をローマから追放したため、アクラとプリスキラという夫婦がコリントに移り住んでいて、彼らの家にパウロが滞在して伝道したことが書かれています。ローマ 16:3を見ると、パウロがこの手紙を書いたときには、アクラとプリスキラ(16:3ではプリスカ)はローマに戻っていたことが分かります。
 今日では、ローマ教会はカトリック教会の総本山として世界に知られている最も有名な教会ですが、聖書から分かることは以上のようなことです。

 そして、パウロが挨拶の次に書くのは感謝です。
 「まず第一に、わたしは、あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられていることを、イエス・キリストによって、あなたがた一同のために、わたしの神に感謝する」。

 この手紙はとても長い手紙です。ローマの教会の様子を伝え聞いて、きちんと伝えたいことがたくさんあったことが分かります。書きたいこと、伝えたいことはたくさんある。しかしパウロは、「まず第一に」「わたしは・・神に感謝する」と記します。
 何について神に感謝するのか。それは「(ローマ教会の人々の)信仰が全世界に言い伝えられていること」だと言います。
 このローマ教会の信仰がどのような信仰であったのか、はっきりはしません。普通は、感謝するとあるのだから、素晴らしい信仰だったのだろうと考えます。しかし注解書によっては、この手紙に書かれている内容を見ると、ローマ教会の信仰は非常に律法主義的だったのではないか、と書いてあるものもあります(例えば、マシュー・ブラック、ニューセンチュリー聖書注解)。
 思うに、欠けのない完全な信仰など、イエス キリスト以外にはありませんし、問題のない教会もありません。ですから、パウロがここで「まず第一に・・神に感謝する」というのは、信仰の善し悪しに関わらず、イエス キリストを主と信じる民が起こされ、教会が建てられている(建物ではなく)という事実に対して感謝しているのだと思います。
 これは、パウロ自身の信仰から来るものでしょう。ご存じのように、彼はキリスト教の迫害者でした。彼が迫害者からキリストの使徒へと変えられたことについては、使徒 9章に書かれています。さらに使徒 22章、26章で、パウロ自ら迫害者であったこと、復活のキリストに捉えられ回心したことが述べられています。けれどもパウロは、自分の召しについてガラテヤ 1:15で「母の胎内にある時からわたしを聖別し、み恵みをもってわたしをお召しになった」と言っています。回心し、キリスト者となったので召されたのではないのです。彼は迫害者でした。それにも関わらず、神は母の胎内にあるときからパウロを聖別し、恵みをもって召されたのだと信じています。
 ですから彼は、ローマにキリスト者がいる、ローマにキリスト者の群れがあり、教会が建てられている、という事実に対して、神が救いの御業をなしてくださっている、と確信し、神に感謝しているのです。
 16章で、ローマ教会の多くの人の名前を挙げて「よろしく」と書いています。パウロはローマに行ったことはありませんが、パウロと関わりのある人たちが、今ローマに住みローマ教会に集っています。信仰による教会のつながりがあり、ローマにキリスト者がいる、教会があるということは、当時の地中海世界、当時の全世界に知られていたのです。

 感謝を伝える「ありがとう」は、文字通り「有り難い」こと、普通にあることではない「有り難い」ことをしてくれたことに対する感謝です。新約が書かれているギリシャ語では「エウカリステオー」という言葉が使われています。この言葉は「カリス」(恵み)という言葉からできています。神から「よい恵み」を賜ったことに対する感謝を表しています。
 神から賜った「よい恵み」とは、イエス キリストに他なりません。パウロは自分の経験から言っても、イエス キリストと出会うことによって信仰へと導かれると信じています。皇帝礼拝の中心地であるローマに、キリスト者がいるということは、神が福音宣教を通して、キリスト者となった一人ひとりにキリストとの出会いを与えてくださったということです。
 イエス キリストこそ、神がすべての人に賜ったよい恵みです。イエス キリストは「わたしたちの罪のための、あがないの供え物」です。「ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のため」(1ヨハネ 2:2)のあがないの供え物です。罪はわたしたちをばらばらに引き離しますが、イエス キリストはご自身を通してわたしたちを一つに結び合わせてくださいます。聖書は語ります。「キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである」(ガラテヤ 3:27, 28)。
 イエス キリストは、神が与え給う「絆」です。罪によっても消え去ることのない「絆」、あらゆる違いを貫いてわたしたちを結び合わせる「絆」です。
 だから、パウロは「イエス キリストによって」神に感謝するのです。キリストの救いに与り、その救いを信じている「あなたがた一同のために」神に感謝するのです。
 そして、まだ行ったことのない土地に建つ教会とつながりを与え、その教会のために今手紙を通して仕える機会を与えてくださった「わたしの神」、このわたしを母の胎内にあるときから選び、神の福音のために召してくださった「わたしの神」に感謝するのです。

 罪のためにわたしたちは神が分からなくなっていました。しかし、キリストの救いに与るとき、わたしたちは神を知るのです。このわたしを造り、このわたしを愛し、このわたしを罪から救う生ける真の神をしるのです。

 近代以降、人は人間を中心にして考えるようになりました。それを表す言葉が「我思う、故に我在り」(デカルト)です。そして、それ以前よりもさらに人間を、わたしを中心にして生きるようになりました。そして、自分を支えてくれる神以外のものを探し求め、自分の誇りとなる成功や富を求めるようになりました。
 しかしキリストと出会い、神を知るとき、わたしは神に愛されている者、神が共に生きたいと願っていてくださる者、神に救われている者だと知るのです。光なるキリストのもとで、神とわたし、わたしとあなた、わたしと世界の新たな関係が現れてくるのです。わたしが中心なのではなく、神が中心であってくださり、神の愛からすべてが始まっていく新しい世界が現れてくるのです。

 そして、今もなされている救いの御業を知るとき、わたしたちはパウロと同じように、キリストによって神に感謝する者へと変えられていくのです。

ハレルヤ