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教理による黙想の手引き 12

教理による黙想の手引き 第12回
日本キリスト教会発行 福音時報 2015年12月号掲載 一部修正
 掲載時のコーナータイトルは「教理を学ぶ - 説教で聞く教理 -」)

 

「聖化」

「どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。」(テサロニケ人への第一の手紙 5章 23節 口語訳)

 聖化は「義認と聖化」というように、義認と一緒に言われることがあります。実は、義認と聖化は別々のものではなく、それぞれ神の救いの御業の特質を表すものです。同様に「赦し」や「和解」なども救いの特質を表すものです。これらは、救いという一つの出来事を語っているのです。それぞれが、救いの中にある恵みなのです。

 聖化とは、「聖」へと変えられていくことです。「聖」とは本来、神ご自身の性質です。神が聖なるお方なのです(2月号「あがめる」)。「聖」へと変えられるとは、神のものとして分けられ、神ご自身のものとなるということです。

 聖化ということについては、口語訳では「きよめ」「きよめられ」新共同訳では「清め」「聖なる者とされ」という言葉で出てきます。

 聖化についてしばしば誤解されるのは、聖化がわたしたちの努力目標のように理解されることです。
 聖化は、「選び」(9月号)と同じく神の御業です。「神があなたがたを初めから選んで、御霊によるきよめと、真理に対する信仰とによって、救を得させようと」(2テサロニケ 2:13)してくださっているのです。
 聖書では「イエス・キリストの地上の生涯について、「罪のきよめのわざ」」(ヘブル 1:3)と言われています。そして「御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめる」(1ヨハネ 1:7)のです。

 ただ聖化の特徴として、聖化は神への応答を含んでいます。それは、神がわたしたちを求めておられるからです。わたしたちを求めているからこそ、神はわたしたちをきよめ(聖別し)、神のものとされ、神の子(11月号)としてくださったのです。

 だから、わたしたち自身こそ、神にささげられるべきものなのです。パウロはこう語ります。「恵みを受けたのは、わたしが異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を勤め、こうして異邦人を、聖霊によってきよめられた、御旨にかなうささげ物とするためである。」(ローマ 15:16)

 ですから、献金の祈りにおいて「献身のしるしとしてささげます。どうか清めてお用いください。」と祈られるのです。

 聖化には自分自身を神にささげていく応答が含まれています。ですから聖書にはこのような言葉もあります。「わたしたちは、・・肉と霊とのいっさいの汚れから自分をきよめ、神をおそれて全く清くなろうではないか。」(2コリント 7:1)
 先に述べたように、これは努力目標ではなく、きよめられ、聖とされた神の子に対する応答の勧めなのです。
 「聖」の本来の意味は、「神のものとして、他のものから分ける」ことです。神から差し出された救いに与る者は、「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげ」(ローマ 12:1)るのです。献金と同様に「主よ、清めてお用いください」と祈りつつささげるのです。

 聖化は神の御業です。だからこそ上掲の聖句のように「きよめて下さるように」と神に祈ります。
 聖化は、神の御心による救いの出来事です。わたしたちを救い主と結び合わせ、神の子とします。「きよめるかたも、きよめられる者たちも、皆ひとりのかたから出ている。それゆえに主は、彼らを兄弟と呼ぶことを恥とされない。」(ヘブル 2:11)
 聖化は、神を慕い求め、神に応答する恵みをもたらします。わたしたちを神と共に生きる幸いに与らせるのです。

「彼(キリスト)は一つのささげ物によって、きよめられた者たちを永遠に全うされたのである。」(ヘブル 10:14)

ハレルヤ