聖書の言葉を聴きながら

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ヨハネによる福音書 1:35〜51

2017年1月1日(日)主日礼拝
聖書箇所:ヨハネによる福音書 1:35~51(口語訳)

 

 きょうの箇所では、イエスと弟子たちとの出会いが記されています。

 洗礼者ヨハネはイエスが歩いておられるのを見かけます。ヨハネは一緒にいた二人の弟子たちに「見よ、神の小羊」と言って、イエスを指し示しました。
 普段からヨハネは、自分の務めを「イエスを証しすること」だと言っていたのでしょう。弟子たちはヨハネの言葉を聞いて、イエスについて行きました。
 イエスは振り向き、ついて来る彼らに「何か願いがあるのか」と尋ねます。

 きょうは元日。神社仏閣に初詣で多くの人が集います。数え切れない多くの願いが神仏に捧げられます。皆さんはイエスから「何か願いがあるのか」と聞かれたら、何を願うでしょうか。

 彼らは答えます。「ラビ、どこにお泊まりなのですか」。イエスは言われます。「来てごらんなさい。そうしたら分かるだろう」。彼らはついて行って、イエスのところに泊まります。
 ラビというのは、ユダヤ教の教師の名称です。彼らはイエスの泊まっている場所を知りたかったわけではありません。彼らは、ヨハネが「見よ、神の小羊」と指し示したイエスが、どんな人なのかを知りたかったのです。イエスは彼らの思いを知って、「来てごらんなさい。そうしたら分かるだろう」と招いてくださったのです。彼らはその夜、イエスとたくさん話をしたことでしょう。

 弟子たちの内の一人は、シモン・ペテロの兄弟アンデレでした。アンデレはシモンに言います。「わたしたちはメシヤに今、出会った」。メシヤとは救い主のことです。ギリシャ語だとキリストです。「イエスこそメシヤ=キリストである」。アンデレが直接イエスに会って、話をして、得た結論です。
 アンデレはシモンをイエスの許に連れて行きます。イエスはシモンを見て、「あなたをケパと呼ぶことにする」と言われました。ケパはギリシャ語でペテロ、日本語で「岩」という意味です。後に彼が「あなたこそ、生ける神の子キリストです」(マタイ 16:16)と告白したとき、イエスは「わたしもあなたに言う。あなたはペテロ(岩)である。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう」(マタイ 16:18)と言われました。

 翌日、イエスはピリポに出会って「わたしに従ってきなさい」と言われました。

 ピリポは、ナタナエルに出会って「わたしたちは、モーセが律法の中に記しており、預言者たちが記していた人、ヨセフの子、ナザレのイエスに今、出会った」と告げます。
 ナタナエルはピリポの言うことが信じられず、「ナザレから、なんのよいものが出ようか」と答えます。ピリポはナタナエルに言います。「来て見なさい」。

 イエスは自分の方に来るナタナエルを見て、彼について言われます。「見よ、あの人こそ、本当のイスラエル人である。その心には偽りがない」。ナタナエルは驚いて「どうしてわたしをご存じなのですか」と言うと、イエスは「ピリポがあなたを呼ぶ前に、わたしはあなたが、いちじくの木の下にいるのを見た」とお答えになりました。
 「いちじくの木の下」というのは、祈りや御言葉の学びを示す表現です。いちじくの木陰が祈りや学びに用いられていたからです。
 この場面では、イエスがナタナエルの信仰を知っておられたことが示されています。ナタナエルが、神を求め、祈りや学びを大切にしている。それをイエスは会う前から知っておられました。
 ナタナエルは驚きをもって答えます。「先生、(わたしの心の内、わたしの信仰を知っておられる)あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」。

 イエスはナタナエルに答えて言われます。「あなたが、いちじくの木の下にいるのを見たと、わたしが言ったので信じるのか。これよりも、もっと大きなことを、あなたは見るであろう」。「よくよくあなたがたに言っておく。天が開けて、神の御使たちが人の子の上に上り下りするのを、あなたがたは見るであろう」。
 ナタナエルは、初めて会ったイエスが自分の心の内を知っておられたことに驚きました。しかしイエスは「これよりも、もっと大きなことを見るであろう」と言われます。それは、イエスによって天が開ける、つまり神の国が開かれ、イエス・キリストによって天と地が結ばれ、天使たちがイエスの上に上り下りする、というのです。つまりナタナエルは、イエスによって神の国が開かれ、天と地が結ばれるという救いの御業を見る、と言われているのです。

 ヨハネによる福音書は、イエスと弟子たちとの出会いをこのように記します。

 ヨハネによる福音書は、大切なことを繰り返し重ねて語ります。
 39節「来てご覧なさい」。46節「来て見なさい」。
 41節「メシヤに今、出会った」。45節「ナザレのイエスに今、出会った」。
 50節「見たと、わたしが言ったので信じるのか」。これはトマスが復活のイエスに出会った場面で言われた「あなたはわたしを見たので信じたのか」(20:29)と共通する表現です。

 きょうの箇所のテーマは、イエス・キリストに出会うこと、そしてキリストによって信仰に導かれ、救いに入れられる、ということです。

 わたしたちは、「来て見なさい」とイエスへ招かれているのです。そして、イエスと出会ったとき、イエスがメシヤ=キリスト=救い主だと分かったとき、神が救いの御業をなしてくださる神であり、わたしをキリストへ、救いへと導いてくださったことを知るのです。そして、弟子たちを救いの御業のためにお用いになったように、わたしたちも「来て見なさい」「今、出会った」と証しする者とされるのです。

 このヨハネによる福音書が編纂されたのは、イエスの十字架から70年近く経っていたと言われています。イエスが十字架にかけられたのが、およそ紀元30年頃。ヨハネによる福音書の成立年代は、紀元90年代後半だろうと考えられています。この福音書を読んだ人、語り聞かされた人は、わたしたちと同じようにイエスを肉眼で見ることはできません。それは、この福音書の著者、あるいは編集者も分かっています。しかし、福音書はイエスの許に「来て見なさい」、そうすれば「今、出会った」と喜べると伝えるのです。なぜなら、福音書の著者、編集者もおそらく肉眼でイエスを見てはいないからです。
 だからこそ、御言葉を通して、イエスが出会ってくださるということを、知っているのです。自分自身も、肉眼でイエスを見たことがなく、イエスの声を耳で聞いたこともない。特に不思議な出来事を体験したわけでもない。しかし、聖霊なる神が働いてくださるとき、宣教の言葉を通して生ける真の神、復活の主イエス・キリストに出会うことができるのです。それを福音書の著者、編集者も知っているのです。だからこそ、福音書はイエスの許に「来て見なさい」、そうすれば「今、出会った」と喜べると伝えるのです。
 キリストに出会った者は信仰へと導かれ、キリストを知った驚きと喜びをもって証しするのです。そして「来て見なさい」と宣べ伝えるのです。そのようにして、キリストと出会い、救いに入れられた者たちが、キリストの福音を2,000年宣べ伝えてきたのです。

 聖書は勉強して学ぶこともできます。考古学や聖書学によって研究することができます。しかし神は、御言葉を通してキリストに出会うように招いていてくださるのです。わたしたち一人ひとりが救いへと入れられ、信じる喜びをもって生きるようにと招かれているのです。

 ですから、聖書朗読と説教の前の祈りで「聖書朗読と説教を祝福し,御言葉を通してあなたに出会わせてください」と祈るのです。これは、祈るときの決まり文句ではなく、切なる願いです。

 どうか皆さん、お一人おひとりが、キリストに出会っていく1年、御言葉を通して救いに与る1年となるよう祈り願っております。

ハレルヤ