聖書通読のために 17
思い巡らす meditation meditado
神の思いに心を向けるために
マタイによる福音書 3:13-15(新共同訳)
洗礼を受けるため、イエスがヨハネの許に来る。
ヨハネは戸惑う。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに」。
イエスは答える。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしい」。
正しいこと、とは何だろうか。
聖書において「正しい」「正しくない」の基準は、「神の御心」である。罪がなく、罪の洗い清めの必要ないイエスが、洗礼を受ける。これが神の御心であることを示している。
必要がないけれども、それをする。これが、イエスによってなされた神の救いの御業を象徴している。
子なる神が人となる。罪がないのに洗礼を受ける。罪がないのに十字架を負う。命の源なる神なのに死を負う。
ただ神の愛が、それを必要としている。お造りになったものと共に生きようと願われる神の愛だけが、それを必要としている。
イエスが洗礼を受けると、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように自分の上に降って来るのを見た。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。
喜びあれ(マタイ 28:9 岩波版)